「目の前の誰かに本をお勧めするんじゃなく、こうして不特定多数の人にお勧めするって、なかなか難しいものですね……(笑)」。遠藤潤・神道文化学部教授(國學院大學図書館長)は柔らかな声で、そして楽しそうにいった。
本学研究者がおすすめの書籍を紹介する新シリーズ『思い出の本棚』第二回。まずインタビュー前編でとりあげるのは、橋本治『「わからない」という方法』。若かりし日の遠藤教授の背中をそっと押してくれた著者なのだという。
大学生になると、レポートを書いたり論文を読んだりするときに、よそ行きの言葉というか、難しい言葉で読んだり書いたりしなきゃいけないと思いがちですよね。
もちろん、専門用語をきちんとおさえて、学術的に正しく読んだり書いたりする方法を学ぶことは重要なのですが、「難しい本がたくさんあるなあ……」とハードルの高さを感じて構えてしまったり、何かわからないことがあれば「自分が勉強不足だからわからないんだ」と考えてしまう。かつてのぼくにも、覚えがあります。
橋本治という作家の本は、そんなぼくに「どんな人でも、自分の頭で考えていい」「自分の立場から、わかるまで考えていっていいんだよ」と、教えてくれました。十代の終わりから二十代前半にかけて、たくさん読みましたねえ。小説や古典の現代語訳など、さまざまな分野の本を書いた人ですが、ぼくが好んで読んだのはもっぱらエッセイでした。
(小説や戯曲、評伝、エッセイ、古典の現代語訳等、たくさんの作品を遺した橋本治(1948-2019)。上図はその一部で、左から第1回小林秀雄賞を受賞した『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社、2002年)、『橋本治が大辞林を使う」(三省堂、2001年)、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(筑摩書房、2002年、『江戸にフランス革命を!』(青土社、1990年)、第9回新潮学芸賞を受賞した『宗教なんかこわくない!』(マドラ出版、1995年)
ふだん、ぼくたちは気軽におしゃべりをしていますよね。そうした日常の言葉の延長線上で、物事を理解していっていいんだということを教えてくれたのが、橋本治のエッセイなんです。どれも若かったころの自分を励ましてくれるような文章でした。
(平成13(2001)年に集英社新書として刊行された橋本治のエッセイ)
今回紹介する『「わからない」という方法』(集英社、2001年)は、ぼくが橋本さんのエッセイを次から次へ読んでいた時期からしばらく経って出た本です。ぼくは、橋本さんが言っていたことを再確認してみたいなあ、という気持ちで手に取りました。
この本では、橋本さんも、自分が取り組んできたことを振り返りつつ、大事なことをもう一度まとめて書いている。彼が多くのエッセイで書いてきたさまざまな思考や方法の中締めといいますか、ひとまずの総集編といえる本だったのでしょう。
そもそも、橋本さんのエッセイの文体は非常に言葉数が多く、それこそ日常語でずーっと書いていくので、きちんとつきあうのが大変です。特に1990年代まではそれが顕著です。いまの若い世代の人には、もしかしたら冗長に感じられるかもしれません。
でも、この『「わからない」という方法』は、以前のエッセイと比べると、言葉が削ぎ落とされて、すっきりと書かれています。
何冊ものエッセイと格闘してきた身としては、「何だ、こんなにすっきり書けるんじゃん」といいたくなりましたが(笑)、橋本さんとしても、中まとめだからこそ書けた本なのだと思います。
学生のみなさんが大学で「わからない」ことに取り組んでいくときも、この本が示すように、友だちと雑談しているような言葉で考えたり、「わからない」ことを調べていって少しずつ「わかる」ことを見つけたりしていければいいなと、ぼくは思います。それは物事を理解する方法として、とても自然ですから。
勉強とか研究とか、はじめはどうしても、怯えとか、コンプレックスみたいなものがありますよね。「勉強がきちんと進んでないから、発言しちゃいけないんじゃないか」とか。ぼくは、日頃からそういう自己規制はできるだけなくしていきたいなと思ってて、ある年度のゼミでは一年の後半に、そんな話を学生に伝えたことがあります。ただ、学生からは「もっと早くいってください!」「年度のはじめにいってくれればいいのに……」と怒られました(笑)。ぼく自身も「なるほど」と反省したので、それからは年度の最初に伝えるようにしています。
ただ、大切なことを最初から伝えていいのかどうかは、難しいところもあります。この『「わからない」という方法』にしたがうなら、まずは自分で手探りのままに進んでいって、しんどくなったところで橋本さんのような言葉に出会うと、「ああ、そうか」となる。最初から近道を知ってしまったら「わかる」ようにならない。
でも他方で、「初心者」には学ぶことや理解することのハードルがあまりに高く見えてしまいがち、という状況もあるわけです。だからいまは、最初にその呪縛は早めに解くようにしています。なかなか解けませんけど(苦笑)。
(遠藤教授が大学生の頃に読んでいたい橋本治のエッセイ、『親子の世紀末人生相談』(フィクション・インク、1985年)。後に相談の数を少し絞って『青空人生相談所』という文庫になった(筑摩書房、1987年)。絶版ではあるが、根強い人気でファンの多い作品。)
ぼくの専門である宗教学も、似たようなところがあります。みんな、宗教を研究したいと思ってこの世界に入ってくるわけですが、具体的にどこかの地域の宗教を研究するとなると、宗教学の研究室にいるだけではダメで、その地域の専門家――たとえばインドならインドの歴史学や思想史の先生のところに、出稽古にいかないといけません。要するに「宗教学」を知っているだけではアマチュアなので、「わからない」ことを勉強しによそに出かけないといけないんですね。
ぼくも大学院に入った後で、そういうかたちで他の分野に“再入門”しに行きました。自分の研究室のある先輩からは、「徒手空拳男」と呼ばれていたんですよ、ハハハ!自分は近世から近代の日本の宗教思想を研究テーマに選んだのですが、前提となる歴史学の専門知識もなく、史料もなかなか読めないから、本当に手探りで、苦労しました博士課程にもなって、他の専攻の学部の授業やゼミに出させてもらうなどして、なんとか「わからない」ことに取り組んでいきました。
そうやって、一通りやってきたあたりで読んだのが、『「わからない」という方法』だったんです。読んだとき、「あ、やっぱりこういうことだよな」と思いました。「わからない」から手探りで進んでいく。まさに、これです。
さて、インタビューの後編でお話しするのは、音楽の本であるピーター・バラカン『魂(ソウル)のゆくえ』と、川上弘美の小説『真鶴』なんですが……ぼくはとても雑読で、なんでしょう、駄菓子屋に通う子どものようなところがあるんです(笑)。本って、つまみ食いするのが楽しいと思うんですよね。
遠藤 潤
研究分野
宗教学、日本宗教史
論文
日本社会における神と先祖 : 19世紀の国学を焦点として(2003/03/25)
平田篤胤『仙境異聞』の編成過程 : 〈語り〉と書物のあいだ(2019/07/)