ARTICLE

大学生におすすめしたい
遠藤教授の1冊 (後編)

思い出の本棚 Vol.2(神道文化学部 遠藤 潤 教授 編)

  • 神道文化学部
  • 全ての方向け
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

神道文化学部教授・國學院大學図書館長 遠藤 潤

2022年8月2日更新

 うーん、よくわからないな……。本のページをめくったとき、よく訪れるこんな瞬間。そこで悩まなくても大丈夫なんだと、遠藤潤・神道文化学部教授(國學院大學図書館長)は優しく話してくれた。

 新シリーズ『思い出の本棚』第二回。橋本治『「わからない」という方法』を語ったインタビュー前編を経て、この後編で取り上げるのは、ピーター・バラカンの音楽ガイド『魂(ソウル)のゆくえ』と、川上弘美の美しい小説『真鶴』。あれもこれも、ちょっと読んでみる――そんな雑読は、とても楽しい。

 

 

 本って、一冊まるまる読み通さなきゃいけないと思うと、これもまたハードルが高くなってしまいますよね。途中でやめてもいいと思うんですよ。ああ、この部分はおもしろかったな、「次、行ってみよう」って。

 私が図書館にかかわっているからいうわけじゃないんですが、図書館の本は、それこそ“つまみ食い”いただきたいんです(笑)。貸出冊数の上限までなら何冊だって借りていいし、ちょっと読んで返却して、どんどん次に手を伸ばすのもいいな、と。それに、本が図書館に帰ってくれるんだから、部屋が散らからなくていいですよ。

 雑読していると、もちろん読んだ内容は、最初はとっ散らかっちゃっいますが、やがて思わぬところで本と本がつながったり、発見があったりします。それもまた楽しいんですよね。  

 その一方で、本は1冊ずつモノとしてのまとまりを持っているので、“つまみ食い”しても、あとでその分野についてまとまりをつけたいときには頼りになります。学校の教科書はその代表例ですが、ぼくにとってディスクガイドの類いもまた、そんな役割を果たしてくれます。 “つまみ食い”ができて、必要なときにはまとめてもらえる…。本は、断片を提供しつつも、断片化しがちな情報に対して脈略をつける、といった感じでしょうか。

 

(『魂(ソウル)のゆくえ』遠藤教授蔵)

 

(平成元(1989)年に刊行されたピーター・バラカン著『魂(ソウル)のゆくえ』。は11刷。令和元(2019)年9月に刊行された新版(右図)も既に3刷。※本記事公開日現在)

 

 ブロードキャスターとして、ラジオの音楽番組DJなどで活躍しているピーター・バラカンによる『魂(ソウル)のゆくえ』は、ソウルミュージックの優れたディスクガイドです。1989年に出版された新潮文庫版をボロボロになるまで読みこんできたんですが、2019年にアルテス・パブリッシングから出た新版も、加筆が多く、新たにSpotifyのプレイリストがQRコードで掲載されていたので、思わず買ってしまいました(笑)。

 中高生のころからポピュラーミュージックは好きでしたが、大学生のころ特にソウルミュージックに興味を持つようになって、この本を片手にどんどん聴いていったんですよね。バラカンさんの解説を読みながら音楽に触れていくと、わりと体系的に聴き進められました。

 現在、音楽を聴く手段は、おそらくサブスクリプション(音楽配信)が主流ですよね。いつでもどこでも好きな音楽が聴けるサブスクのサービスはとても便利です。ただし、情報の入り方にとりとめがない、という面もあります。以前のようにアルバムごとではなく、曲単位で聴けばさらに断片化し、脈絡がなくなっていく。体系やかたまりとして音楽を体験するということは、なかなか難しくなります。

 『魂(ソウル)のゆくえ』をはじめとしたディスクガイドの本は、歴史を背骨としつつ、まとまりとして音楽を紹介してくれますし、これからの時代にも重要な役割を担ってくれる気がします。

 広い意味での歴史を知るというのは、実は研究においても大事です。ぼくは平田篤胤という人物を焦点として研究を進めています。篤胤という人物、さらにその周囲の人間関係について研究するとき、そのつながりは単にフラットではなくて、強弱があったり、上下関係があったりする。さらには誰が誰に影響を与えているというような、時代的な前後関係もあるわけです。そういう意味で、歴史の文脈を意識するというのはとても大切です。

 音楽の場合も、例えば、いまのポピュラーミュージックを聴くとき、その一曲が流行っているとしても、実は過去の音楽からの引用や影響がありますよね。それは知っておけたらより立体的に聴けるんじゃないですかね。研究の場合は歴史の文脈を理解していないことはもっと深刻です。あるアイディアの初出として何か論文を引用したときに、他の人から「それはオリジナルじゃなくって、元ネタはもっと前に出たこっちだよ」と指摘されたら恥ずかしい(笑)。

 サブスクで曲をバラバラに聴く機会が多くなったとしても、やっぱりディスクガイドのような本は、手元にあるといい。もちろん書いた人による偏りは出るので、普遍的ではないと思いますが、行き当たりばったりに音楽を聴く一方で、「この人が紹介してくれるなら……」というかたまりをディスクガイドから受け取って、そちらも入り口として聴いていけるといいですよね。その幹から枝葉を広げて、いろんな音楽を聴いていければおもしろいし、散漫な聴き方で道に迷ったときも、その本を開いて脈略や歴史を確認することができる。

 

(『真鶴』の単行本と文庫本。いずれも遠藤教授蔵)

 

 一方、宗教的なものへの自分の関心にかかわる一冊として紹介しておきたいのが、川上弘美の小説『真鶴』(2009年、新潮文庫)です。2006年に単行本が出て以来、何度か通読もしているんですが、普段はそれこそ、適当な場面をちょっとだけ“つまみ食い”する。川上さんの文章のリズムは、自分によくあっていて、声に出さずとも頭のなかで音読をすると、言葉がとてもきれいに流れていって気持ちいい。ああ、いいなあ、と鑑賞する感じで楽しんでいます。単行本も文庫本も持っていますが、こういう読み方のときは、掌に収まるサイズである文庫本が絶対いい。

 主人公である女性の夫は失踪していて、一方で彼女は別の男性と逢瀬を重ねて……というような話なのですが、そのあいだずっと、“憑いてくる”ものがある。目に見えない女性が、あやしげに、主人公の周りに現れたり消えたりするんですね。

 そもそもぼくが宗教学をやろうと思ったきっかけとして、親の実家で不思議な話がいろいろ語られていたことが大きいんです。時代や地域性に起因するのかもしれませんが…。それって本当に“ある”んだろうか――伝承や経験談を頭から信じるというよりは、どうやって理解したらいいんだろうと興味を持ちました。

 実際の研究としては、現在の宗教体験や伝承をフィールドとする方向には進みませんでしたが、ふだん文献資料を対象に過去の宗教的現象に向き合いつつも、〈科学的に証明される/されない〉というのではないところで、「人間は不思議なものに出会っている」ということに興味はある。『真鶴』もまた、その不思議なものの正体が明かされないまま、ずーっと小説が続いていきます。

あやしげなものをリアルに捉えるとしたら、こういう表現になるんじゃないでしょうか。 “おさまりのつかなさ”っていうか、「わからなさ」が好きですね。

 そもそも人間は、ストーリーといいますか、物語として体験したり理解したりしています。あやしげなものだけではなく、これもまた『真鶴』に描かれているように、実在する人間との付き合いにも濃淡がある。僕たちが経験している実生活は、もしかしたらこの『真鶴』に似ているんじゃないだろうか、と感じています。

(作中に登場した真鶴町の三ツ石海岸)

 

 こうして若いころからいろんな本を雑読してきました。しかも、だんだん年をとってくると――インタビュー前編で触れた橋本治ふうにいえば――「わからない」ことが平気になってきたんです(笑)。

 昔は、読んで「わからない」と苦しかったんですけど、いまではいろいろ「わからない」のは自分の外に多様性があるからだし、これが「わからない」のはこの分野あたりの知識がないからだなとアタリがつくようにもなった。今読んでいる本がわからなくても、別の本を読んでいったら、ふとした瞬間に「わかる」かもしれません。実際、そんな経験も少なくありません。

 そんなこんなで、「わからない」読書が、最近は楽しいんです。

 

 

 

このページに対するお問い合せ先: 広報課

MENU