昭和30年代のこと、『國學院雑誌』誌上において現存最古の古典である『古事記』にまつわる論争が展開された。
『古事記』は、その序文によると天武天皇の勅命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)した帝紀や先代旧辞を、元明天皇の時代になって太安万侶(おおのやすまろ)が筆録し、和銅5(712)年に完成したとされる。『國學院雑誌』での論争は成立に携わった稗田阿礼の性別についてであった。
稗田阿礼は歴史上、『古事記』序文にしか登場しない人物であり、そこには「時に舎人(とねり) 有り。姓は稗田、名は阿礼。年は是れ廿八。人と為り聡明(さと)くして、目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す」とある。阿礼の性別については、はやくに本居宣長が『古事記伝』において「稗田翁」「稗田老翁」としており、男性として認識していたが、平田篤胤になって女性説がおこった。篤胤は、稗田氏は女性が朝廷に仕えること、舎人をトネと読みこれが男女共通であること、阿礼というのが男性らしくないことを根拠に女性説を展開したのである。これは、のちに國學院教授であった井上頼囶『古事記考』にも継承され、さらに柳田国男『妹の力』によって民俗学的見地から補強されることとなった。
ところが、この女性説については、多くの反論が出され男性説の主張が目立っていった。そのような中で、本学出身で実践女子大学教授であった三谷栄一が、『日本古典鑑賞講座 第2巻』(武田祐吉監修、昭和32年、角川書店)に「稗田阿礼と語部」を、つづいて『國學院雑誌』に「古事記と海人族の伝承―稗田阿礼をめぐって―」(同年12月)を発表し、女性説を支持したのである。これを受けて國學院大学教授の西田長男が『國學院雑誌』に男性説の立場から「稗田阿礼男性?女性?」(昭和33年11月)を発表したことで論争が巻き起こった。二人は、他誌上でも稗田阿礼をめぐって論文を発表し、三谷は『國學院雑誌』においては昭和36年、37年と女性説にまつわる論考を重ねた。この当時、二人のほかにも論考が発表されたが、その最たる論争は『國學院雑誌』で展開されたのであった。
さらに阿礼の性別をめぐる論争は、一方で『古事記』成立にあたり阿礼の担ったという「誦習」がどのような行為であるかの議論を深めることにもなった。序文にしか確認できない稗田阿礼の人物像や『古事記』成立の役割については、現在もなお、諸説展開されている。
※國學院雑誌について
※学報連載コラム「学問の道」(第61回)
渡邉 卓
研究分野
日本上代文学・国学
論文
「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)
「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)