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『國學院雑誌』創刊の苦難

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研究開発推進機構 准教授 渡邉 卓

2024年7月8日更新

 明治20年代の皇典講究所の財政は困窮していた。山田顯義所長以下の当事者はさまざまな財政策を行った。その一つが増収を企図した明治22(1889)年の『皇典講究所講演』の創刊であった。ところが、松野勇雄幹事がみずから各所へ働きかけるも、評判のわりにはその成果は上がらず購読者は減少の一途をたどった。23(1890)年に皇典講究所は拡張計画を立て國學院を設立するが、25(1892)年に山田所長、26(1893)年に松野幹事を相次いで喪うと、『皇典講究所講演』の販売数はいっそう激減し廃刊の止むなきに至った。さらに26年12月には初代院長であった高崎正風が突如辞任し、皇典講究所・國學院は苦難の時代を迎えることとなる。27(1894)年1月に院長として前社寺局長の國重正文が就任すると、いくつかの経営再建策を行い、その一つに『國學院雑誌』の発刊があった。

 当時、新設の國學院の経営も当然のことながら基金の募集が窮迫しており、國學院の事業に賛成する者を優遇する規約として「國學院賛成員待遇規約」を定め、広く募金運動を展開することとなった。全十九条からなる規約の第十条には「五年間毎月一回本院ニテ国学、又ハ国学研究ニ必要ナル諸学科ノ講義・論説・考証・歌文・質義及ビ現今文学ノ状況等ヲ掲載セル雑誌(非売品)ヲ発刊シ、之ヲ頒ツベシ」とある。『國學院雑誌』と命名されたこの雑誌は、当初の賛成員に頒布する非売品から、やがて広く学界の要望にも応じて発売することとなる。

 明治27(1894)年11月、第一巻の巻頭に発刊の趣旨が述べられており、一つは、普通教育への貢献を期して、国史・国文の普及を図り、一つは深くこの学問を研究してその新彩を発揮するとある。創刊時の発行兼編輯代表者は青戸波江、印刷所は皇典講究所印刷部であり、定価は郵税共金20銭であった。執筆陣も、物集高見・篠田利英・栗田寛・湯本武比古・本居豊穎・川田剛・坪内雄蔵・小中村義象・落合直文・阪正臣・松本愛重・関根正直という錚々たる人物が筆を執っている。また、論説のほかに、講述・評釈・雑録・応問・彙報・詞林などの欄を設け、主な連載は後に書籍化された。まさに『國學院雑誌』は、新しき国学の発展に寄与することを目途としたのであった。

 皇典講究所・國學院では、近世から続く国学の学問的英知や新たな研究成果を広く公開して社会へと還元し、教育へ活用することを目的として、複数の雑誌や書籍の編纂・刊行につとめてきた。『國學院雑誌』の創刊の背景には、厳しい経営状況があり、その出版形態も紆余曲折を経てきたが、こんにちの国公私立大学の中で、明治以来発行を続けている研究雑誌を有する大学は数えるほどしかない。

『國學院雑誌』創刊号

 

國學院雑誌について

学報連載コラム「学問の道」(第60回)

 

渡邉 卓

研究分野

日本上代文学・国学

論文

「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)

「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)

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