地域に根差した森林に、温泉地やリゾートといった観光地のありよう。あるいは都市圏の大規模な公園から、緑が生い茂る国立公園まで。下村彰男・観光まちづくり学部教授が考察し、また実践の対象としてきたのは、こうした大きなスケールの「風景」だ。
その哲学をひとまず一言で表せば、土地の文脈なくして風景なし、ということだといえるかもしれない。その土地において、自然と人が織りなしてきた文脈に重きを置きながら風景を考え、未来に向けて新たに手を加えていく、ということ。前後編にわたるインタビューからは、その絶妙なバランス感覚が伝わってくる。
専門は何ですかと聞かれたら、「風景計画」です、とお答えしています。人間の生活の舞台としての風景を、どのように形づくっていくのかということにかんする方法論に、長年取り組んでいます。風景を構成しているものは非常に多様ですから、研究対象やそのスケールもまた非常に広いものになることは、ご想像いただけるかもしれません。都市部の街路から、地域の森林の風景に至るまで、さまざまな風景を議論しうるのです。
私自身はどちらかといえば、大きなスケールの風景を扱うことを得意としてきました。計画ということばと似通った意味合いをもつものとして、デザインや設計といったことばもありますが、そちらはどちらかといえば小さなスケールで物事を考えるときに使われることが多いように思います。たとえば、いま取材を受けている部屋の窓や柱、机や椅子といった要素をどう形づくっていくか、あるいはそれらの全体としての風景をどう構成していくかということならば、デザインや設計ということばを用いることのほうが多いでしょう。一方で私が主に専門としてきたのは、窓の外に見える、本学のたまプラーザキャンパスの斜面に広がる木々やグラウンド、道路、建物といったようなスケールより上の物事です。
もちろん、広域で考えるといっても、細かなスケールの思考をないがしろにするということではありません。道路の段差ひとつをどのようにつくるのかによって、人々の動きや生活の舞台そのものが変わってきます。それらも考慮には入れたうえで、より広いスケールの風景を重点的に考えるというのが、私が取り組んできたことでした。
そうした研究の出発点となったのが、私が学んできた造園学です。場所ごとの自然のありように応じながら、園地を形づくり人の営みを演出する、その最もよい方法を考えていくという造園学は、生きた自然を相手にしているという点で、風景計画をめぐる私の思考に大きく影響しているように思います。
樹木を植えるにしても、時間が経てば大きく育ち、立派なものになっていきます。固定的ではありえないわけですね。その動態としてのありようは、先ほど申し上げたように、大小さまざまなスケールで観察することができます。この部屋ひとつとっても、人が入ってきて、机の場所が入れ替わっていけば、くるくると風景は変わっていく。風景は、動的なものであり、人々の暮らしがそこに刻み込まれていくのです。風景計画では、そうしたことも考えなければなりません。
たとえば、いまでは「花の都」と呼ばれているフランスのパリも、当初からいまのような姿ではありませんでした。19世紀に時のセーヌ県知事であったジョルジュ・オスマンという人物がおこなったパリ改造とよばれる都市整備事業によって、いまのような姿に大きく変貌しました。面白いことにリニューアル当初は、ヴィクトル・ユゴーをはじめ当時の作家や芸術家からは、惜別や批判の声が高まりました。要は、それまでのごちゃごちゃした人の営みや想いが積層したパリの風景のよさがなくなってしまった、という批判なのですが、150年以上経ってみれば「花の都」として認知されるようになっているわけです。
このように風景というものの見方は非常に多様であり、人工的なものと自然的なものが複雑な構成をとりながら変化していくものですし、それに対する認識や価値付けも変化します。こうした点を想定しながら計画していくということが、肝要なのだろうと思います。
風景計画において重要なポイントは幾つかあるのですが、もうひとつ挙げるとすれば、地域や土地ごとに、風景には文脈や記憶が存在している、ということです。たとえば森林の風景ひとつとってみても、地域ごとに人がどのように関係してきたのかという経緯はさまざまです。したがって、単なる緑の風景あるいは森の風景として、どこでも同じ風景が広がっているわけではなく、その土地らしい森林の風景が形成されているものです。
風景計画に携わる際には、まずはこうしたその地域らしさ、地域の文脈というものをきちんと探らなければなりません。そのうえで、どのように生活の舞台を演出していくのかを考えてゆく。風景計画は、二段階でこそ可能なのです。本学の観光まちづくり学部は「地域を見つめ 地域を動かす」という標語を掲げていますが、そのことにもつながると考えています。
実は日本社会でこのように風景の文脈情報が重視されるようになってきたのは、近年のことであると私は考えています。おおよそ昭和から平成の頭ぐらいまでは、経済合理性や機能合理性が、自然合理性より優先されてきました。要は水系や地形など自然のありように合わせながら人の暮らしを形づくるよりは、利便性や機能性、経済性が重視されて風景が形づくられる時代がしばらく続いたわけです。
しかし、つい先日、2024年3月に一区切りを迎えたNHKの番組「ブラタモリ」が、2008年の番組当初から人気を博してきたのは、近年の動きとして象徴的だとおもいます。「ブラタモリ」は道の傾斜や曲がり角など、風景のちょっとした細部に、その地域ならではの、歴史や地形等の文脈を見出だし、掘り下げていくような番組です。風景の文脈をもう一度重視していこうとする流れが生まれてきているわけであり、風景計画もまた、常にこうして揺れ動く価値観のなかでその時代ごとのありようを見せていくわけなのです。インタビューの後編では、より学術的な観点に立って掘り下げてみましょう。