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地域や土地独自の文脈と切り離して風景は成立しない

風景を読み、まちをつくる風景計画 −後編−

  • 観光まちづくり学部
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観光まちづくり学部 教授 下村 彰男

2024年7月1日更新

 初めて訪れた場所でも、どこか居心地がいい空間というものはある。あるいは昔とはすこし様子が変わった場所であっても、何かの名残があることで、落ち着けるということもあるだろう。人は、時間や空間のなかで上手く文脈や秩序をつかみ、自分を位置づけることができれば、そこに安心して身を置くことができる──下村彰男・観光まちづくり学部教授は、風景をそのような観点から考えている。

 とはいえ、こうした考え方は日本の歴史上、常に重視されてきたというわけではない。「情報」と「実景」をめぐるせめぎ合いについて、時間の針を巻き戻しながら考えていくインタビュー後編。読後ふと目をやる窓の外の風景も、一味違ってくるかもしれない。

 

 インタビューの前編で、近年の風景にかんする考え方が、経済合理性や機能合理性よりは自然合理性が重視されるようになってきている──つまりは地域ごとの風景の文脈や、その土地の個性というものが考慮されるようになってきている、ということについて触れました。

 より学術的な議論として、もうすこし深入りして考えてみましょう。意外なことに日本における風景は、古くは「実景」より「情報」が占める割合が大きかった、ということが言えます。たとえば、名勝である「和歌の浦(若の浦)」は、『万葉集』の頃から歌に詠まれ、その後平安時代においても名所とされており、現在に至るまでその人気は続いています。しかし、かつてその地を愛していた貴族らが皆、現地で「実景」つまり、実際の和歌の浦の風景を目にしていたわけではありません。歌や絵画などを通じて、あるいは天皇が行幸されたというエピソードを聞くなどして、イメージ=「情報」を共有していたのですね。風景とは目に見えているもの、とは限らなかったのです。

 しかし近代以降、特に20世紀に入ってからは、交通機関や映像技術の発達によって、多くの人々が「実景」を見ることができるようになりました。そして、風景とは実際に皆の目に見えているものになり、背景にある情報の重みというものが顧みられなくなっていく。風景を地域の自然や歴史、文化、人々の生活や生業から切り離すことによって、操作性を高め、視覚像形成技術を洗練させてきた、と学術的にはまとめることができます。こうした認識のありようは、実際の風景を容易に変えてしまうことにもつながりうるわけです。

 しかしこのような風景の操作が、土地の個性を無視しがちなものになってしまうことはご理解いただけると思います。そうした風景の操作にたいする社会的な反省が、インタビュー前編でも触れたような、地域の文脈を重んじる「ブラタモリ」のヒットなどに象徴されているのではないでしょうか。

 風景とは往々にして、さまざまな情報を含んでいるものです。たとえば、いま取材を受けている部屋の窓からは、本学たまプラーザキャンパスのグラウンドが見え、運動している学生たちも目に入ります。しかしそれをただなんとなく見るということと、大阪マラソン2024で優勝した陸上競技部の平林清澄選手が練習場にしているという背景を踏まえて眺めるのでは、見え方も意味合いもまったく異なってきますよね。

 風景というものは、本来、そうした地域や土地独自の文脈や背景というもの抜きには考えにくいものです。近代はこうした背景とは関係なしに風景を操作してきてしまったわけですが、私たちはいま一度、人々の営みの表現形としての風景をしっかりと捉え、地域の文脈との結びつきを回復していく必要があると考えています。

 また、人間はやはり生物であるわけですから、自然や土地といったものから離れては存在しえないでしょう。それを私は、空間に「定位」すること、すなわち「オリエンテーション」という表現を用いて考察してきました。人がある場所において落ち着いて存在することができるというのは、この「オリエンテーション」が可能であるからです。

 たとえば、私がこれまで論じた対象のひとつに、温泉地があります。温泉地は、訪れる人にとっては見慣れぬ異界でありつつ、リラックスして過ごせるという不思議な場所です。それは、温泉に入って寛げるというだけでなく、自分がどこにいるのかという位置づけ、すなわち空間におけるオリエンテーションが容易な場所になっているからです。湯治場と呼ばれた昭和戦前期までの温泉地では特にその傾向が強く、旅館や社寺、外湯、そして河川や山などが、湯治という営みに合わせて自然に立地し、巧まずして明瞭な空間秩序が形成されていました。日常を忘れさせてくれる場所でありながら、訪れる人が不安を抱くことなく寛げるのは、こうした自然にも紐づいた風景上の構造をもっていることが重要です。砂漠に放り出されると、人はこうしたオリエンテーションが難しくなり不安になってしまうのですね。

 そしてオリエンテーションは、空間のみならず、時間においても重要です。すべてをスクラップアンドビルドしてしまっては、そこでかつて誰が何をしていたのかを、風景の中からたどることができなくなってしまいます。都市域で過剰な開発をしてしまうと、人々はこうした不安に直面することになります。

 風景計画とは、このように人々のトータルなオリエンテーションを可能にする仕掛けをいろいろとつくることでもあります。かといって、あまりにあざとくつくり込んでしまっては、ただの味気ないテーマパークになってしまう。地域の文脈を基盤としながら、人々が愛着と誇りを持って暮らす舞台として、風景を過不足なく整えていく必要があります。

 人の営みと土地や地域との結びつきを、風景によってうまく演出していく。コミュニティや社会へと広く向けた意識のなかで、風景というものを考え、計画していく。本インタビューではさまざまな観点から風景計画について考えてきましたが、私たちはいま、風景のことを考えることで、人に安心と意欲を与えてくれる場所やコミュニティの形成に向けて、ポジティブな変化を促すことができる、そんなフェーズに立っているのだと思います。

 

下村 彰男

研究分野

風景計画、造園学、観光・レクリエーション計画

論文

地域資源としての森林風景(2020/06/05)

韓国の自然系名所における伝統的楽しみ方(2019/08/16)

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