近くて遠い? 遠くて近い? そんな親の気持ちや大学生の子どもの気持ちを考えます。
「心は離さない」
「赤子には肌を離すな 幼児には手を離すな 子供には目を離すな 若者には心を離すな」これは、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿に対し、現代の情報化社会に添った「よく見・よく聞いて・よく話そう」の「お元気三猿」で親しまれている秩父神社の「親の心得」です。
國學院大學に入学した学生たちは、もはや親の保護を受けず、独立して何事もできるようになった、と思われるかもしれません。しかし、この「親の心得」にあるように、彼らの「心は離さない」ようにしましょう。
では、「心を離さない」とは、どういうことか。
しかも、國學院大學の「告諭」にある「本(モト)ヲ立ツル」、すなわち日本の伝統文化に基づいた日本の根本を極める神道精神の基礎とする子育てにおいては、どういうことなのか。
國學院大學「本(モト)ヲ立ツル」が問う人育て
それはやはり、國學院大學の開設理念となった『古事記』における「国生み」にみられるでしょう。
その「根本」は、欧米では、神=他我が「つく(造)る」のに対して、日本のそれは、自らが「なる」ということです。
イザナギ、イザナミに、天つ神が下界の海を指し示し、「この漂へる国を修理(つくろ)ひ固め成せ」と命じられ、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、カラカラとかき鳴らし、塩が固まり島となる、のです。
今日の情報化社会が求める人育て
國學院大學の社会的使命は、「なる」社会の建設に向けた社会の開発と人心の開発です。
すなわち、社会や人を「つくる」のではなく、自ら「なる」方向に導く「開発」方法の探究を課題としています。
また、今日の情報化社会では、自ら「なる」「なろう」とする主体化が必須条件とされているのです。
平成元(1989)年以降の学校教育の改革指針(学習指導要領)も、かつての「学歴主義社会」に見られた「同じことを」「同じやり方で」「同時に(みんな一緒)」の優秀性を競う工業化社会=前情報化社会における同調主義(「そろえの教育」)からの脱却を意図するものでした。
具体的には、「自ら考え、自ら判断し、自ら行動し、自ら表現する子どもの育成」です。
それはまた、そうした行動の結果の多様性(ダイバーシティ)を保障する「個性尊重(重視)の教育」の提唱や、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善の推進となりました。
他者が「つくる」から、自ら「なる」へ ~さだまさし氏の場合~
ここで、「つくる」から「なる」への意識改革の一例を挙げましょう。
先日の國學院大學の卒業式では、本学の客員教授でもある、さだまさし氏の公演というサプライズがありました。
彼によれば、長崎の小学校時代は、天才ヴァイオリニストとして期待を集めていましたが、上京してからは、その重圧に押しつぶされていました。その彼に、本学入学後、変化が起こります。
「自分は何をしたいのか」「自分はどんな自分になろうとしているのか」、と自問したのです。
その答えは、歌を通して「人に心を伝える歌手になりたい」、でした。
総じて言えば、今日の彼ができたのは、技術力の偏差値を競う「つくる」教育からの脱却ですし、「(自ら)なる」への意識改革だったのです。
今年度も「明治天皇御製」で締めさせていただきます。今回は手元を離れていく我が子を想う親心を詠った句です。
「ひとりたつ身となりし子を幼しと おもふや親のこゝろなるらむ」(立派に自立して何事もできるようになったであろう子も、なおいつまでも幼いもののように思うのは、子を想う親の心であろう)
新富 康央(しんとみ やすひさ) 國學院大學名誉教授/法人参与・法人特別参事 |
学報掲載コラム「おやごころ このおもい」第21回