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明治期皇典講究所・國學院の編纂・出版事業

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研究開発推進機構 助教(特別専任) 比企貴之

2024年3月4日更新

 明治期の皇典講究所・國學院では、日頃の学術研究の成果や知見について、これを書籍として編纂・刊行し、社会へと還元することがその事業の柱石の一つとして位置していた。もっとも、皇典講究所は創設からわずか3年後には、その財政は「甚不都合之至ニ有之候、……前途甚不安心之儀候ニ付」(明治18〈1885〉年)といわれるほど困難な状況にあった。明治期皇典講究所・國學院における書籍編纂・出版事業には、一方で財政困窮の挽回のための方策という側面もあったことは否定できない。

 例えば、國學院設置に重大な役割を果たした山田顯義(皇典講究所所長・司法大臣)は、財政的に「(皇典講究所が)将来維持の方法困難」であることを看破していた。そこで事業拡張の協議会を催し、①國學院・日本法律学校設置の他、中等学校と師範学校の教員資格取得、②国体および固有倫理にかんする教科書の編纂、③新聞雑誌による宣伝、④通信教育導入と校外生募集などを計画した。また山田は『古事類苑』や教科書編纂事業遂行の必要について演説をおこなうなど、編纂・出版事業に寄せる期待は並々ならぬものがあった。

 ところが、山田は急逝し(明治25年)、臨時に松野勇雄監事らが経営を領導することとなる。かれらにより組織や事業の改定発展案として立案された『皇典講究所御処分案』では、事業を教育と編纂の二部門立てとする大胆な構成を採用し、とくに後者には①文部省委託『古事類苑』の編纂継続、②教科書編纂の継続拡張、③帝国大学で停止中の史誌編纂の引き受け希望、④講演録発行の継続実施などの施策が掲げられていた。

 さらに松野の死去(明治26年)を経て、新たに院長に立った國重正文(明治27年)は、改めて①國學院の生徒養成、②学階授与試験の施行、③礼典の一部別置、④『古事類苑』編纂、⑤講演会開催と講演録・通信講義の発行などからなる事業綱領を示した。ただし、時局(財政の困窮極致、日清戦争への突入など)の関係からであろうか、④では従前までの教科書編纂が削除されるなど編纂・出版計画は縮小後退したらしい。

 のち佐佐木高行が所長・院長に就任(明治29年)すると、人事刷新や規則改正といった諸改革が進められ、ようやく編纂・出版事業にも回復の兆しが見えた。明治36年には事業拡大にともない、編輯部が國學院の所轄から経営分離されている。図書編纂・出版事業の本格化を企図したものだろう。また、このかん皇典講究所卒業生や國學院同窓会による書籍の編纂や院友研究会・史学講究会の発足をみるなど、明治20年代後半から同30年代にかけ皇典講究所・國學院内外で文運興隆の機運が醸成されたことも看過できない。ただし、出版関連事業のいわば勇み足は、やがて教科書編修出版問題を惹起する。

 なお、文運盛り上がりの嚆矢的出来事として特筆すべきは、明治27年、募金計画として特別賛成員・通常賛成員に非売品の雑誌の頒布を打ち出したことである。この雑誌こそ本年創刊130周年の節目を迎える『國學院雑誌』である。黎明期皇典講究所・國學院の事業にみえる書籍の編纂・刊行は、その水脈を今日まで豊かに湛え続けている。

國重正文 山田顯義と同郷(萩)出身で親しく、事業計画にあたっても山田の遺志の継承に努めた。皇典講究所では会計監督として経営内情に精通していた。

学報連載コラム「学問の道」(第57回)

比企 貴之

研究分野

日本中世史、神社史、神祇信仰、神社史料、伊勢神宮、石清水八幡宮

論文

明治三十年 八代国治日記(2023/03/06)

石清水八幡宮の史料と修史(2022/12/14)

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