無生物主語の受け身、「いる」と「ある」、「の」と「こと」……。現代日本語教育の現場を悩ませる問題は、古典語まで含めた日本語史の観点でとらえれば、興味深い問題でもある。難題の淵源こそが、日本語の面白さなのかもしれない。
第4回にして最終回を迎える、菊地康人・文学部日本文学科教授と吉田永弘・同教授によるシリーズ「日本語学対談:古典語と現代語に橋をかける」。縦横無尽に、そしてユーモアを忘れず展開されてきたディスカッションは、ひとまずの終幕。しかしふたりの言葉は、その先に連なる探究の道へと、読者を誘っている。
菊地 留学生などの日本語教育の学習者が、「……ておく」「……てしまう」といった補助動詞を習うと「日本語にはなんでこんなのがあるのかな」と思う、というのは前回お話しした通りです。一方で、たとえば受け身は、学習者がすんなりと受け入れる文法表現なんですね。それは、受け身は、たいていの言語にあるからです。実は、同じ受け身という呼び方でも、言語ごとにずいぶん違う点もあるのですが、「今日は受け身の勉強です」と言うと、「ああ受け身ですか、日本語にもあるんですね」と、不思議がらずに受け入れてくれます。
吉田 補助動詞とは大きな違いですね。
菊地 ただ、それはそれで難しいところがあるんです。いま申しましたように、言語ごとに、受け身は結構違います。一例として、「日本語では、無生物主語の受け身はあまり使わないほうがいい」と教える必要があるんですね。たとえば「私の鞄は盗られました」「机の上にペンが置かれました」といった表現は、どこか自然ではなく変な感じがするでしょう? 受け身には、人を主語にした「子どもがほめられた」のようなものと、「金庫が持ち去られた」のように無生物を主語とするものがありますが、日本語では、無生物主語の受け身は、実はかなり限られた場合しか使われていないわけですね。しかし、特に欧米系の学習者たちは母語で馴染みがある無生物主語の受け身をとかく使いがちで、結果として、「私の鞄は盗られました」のような不自然な文を作ってしまう。それで、教授者は「無生物主語の受け身は基本的に使わないように。必ず人を主語にして『私は鞄を盗られました』というように言ってください」と伝える必要があるわけです。それでも、無生物主語の受け身という表現自体を隠しておくわけにはいかない。隠したとしても、学習者から、実際に日本人がそう言っているのを聞きましたと言われることになるので、仕方なく教えるしかないわけです(笑)。しかしどんな場合になら無生物主語の受け身を使えるのかというと、いくつかの場合があるんですが、これを教えるのは、かなり難しい話なんですね。
吉田 受け身という表現があること自体はすんなり受け入れられるにもかかわらず、実際に細かな説明をしていくのが難しい表現である、と。悩ましいですね……(笑)。
菊地 無生物主語の受け身に関しては、そもそも日本語学的にも、難しくておもしろいものがあります。ご存じのように、日本語学では、長らく、こんな通説がありました。日本語の無生物主語の受け身は、幕末から明治にかけて、日本語がヨーロッパの言語から多大な影響にさらされるなかで生まれた近代の産物である、と。
誰が最初に言ったのかは知らないのですが、錚々たる大家がだいたいこう言っていた時期があった。ところが、比較的最近になって、実際にどうなのかきちんと調べると、すでに平安時代にも無生物主語の受け身の用例はあったこと、ただし、無生物主語の受け身は後代になるといくつかのタイプが存在しますが、平安時代にはまだ、あるタイプのものにほぼ限られていて使われ方もそう多くなかったこと、それが、近代になると、無生物主語の受け身の中で新しいタイプの受け身の使い方ができて、使われ方も増えてきたこと、などが、いろいろな方の研究でかなり詳しくわかってきたわけですね。受け身は近代になって発達の度を加えたことは確かですが、近代になって初めてできたわけではなかったんですね。
吉田 無生物主語の受け身が古典語文法にはなかったと言われていたのが、実はあったということが知られるようになったわけですが、その上で古典語にはなかったタイプの表現もまたわかってきたわけですよね。それが、「家が建てられた」「会議が開かれた」といったタイプの文です。「……が●●によって~~された」というように、「●●によって」を伴う、あるいは、「●●によって」を明示しない場合もあるが、補うことはできるタイプの受け身文です。古典語にはなかったタイプで、こういうのが、あとからできたということがわかった。そうした「●●によって」を伴う無生物主語の受け身文は、近代化の過程で英語などの影響も受けるなかで生じたものだった、ということですね。
菊地 現代語と古典語に橋をかけながら徐々に通説を解きほぐし、検証を重ねていく──その好例かもしれませんね。
もうひとつ、現代語と古典語を股にかけたトピックとして思い浮かぶのは、補助動詞と同じく日本語学習者を惑わせる「いる」「ある」ですね。人間や動物といった生物が主語の場合は「学生がいます」「友だちがいます」「犬がいます」「猫がいます」「兎がいます」と言い、無生物主語の場合は「本があります」「時計があります」と言うわけです。主語が生きているかどうかで使い分けてほしいと最初級の日本語学習者に伝えると、「えっ」と驚いた顔をします。いや、驚きの声が漏れることさえあります(笑)。
吉田 そうなんですね(笑)。
菊地 たいていの学習者は、「自分たちの母語では、そんな使い分けはない」と言う。実は現代日本語でも限られたケースでは「妻子がある」といった言い方もあるわけですが、そうした表現も次第に衰えているようです。では、こんな「いる」「ある」問題は日本語史的に見てどうなのかというと、また面白い話になるわけですよね。
吉田 そうですね。古典語では、「男ありけり」というように「あり」だけが使われます。「いる」という単語も存在していたのですが、意味合いが異なり、「座る」という意味でした。その「いる」(=座る)が、だんだんと「あり」の領域に少しずつ入っていくのが、やはり中世の終わりぐらいのことなんです。それがなぜなのかは、正直わかりません(笑)。
菊地 無理に理由を語り出して、自分たちの領分をこえて歴史学的な背景といった話を加えていくと、あやしい言説になりかねないので気をつけねばなりませんね(笑)。
吉田 一方で、中世の終わりの古典語から現代語に到達するまでには時間が空きますから、その間はやはり気になるところです。
菊地 近世でも、日本語文法にはいろいろなことが起こっています。たとえば現代語では「彼が出発したのを見た」のように「の」を使って言うところを、中世ではこの「の」を入れずに「……したるを」のように言いますよね。
吉田 「の」が入ってくるのは近世になってからですね。派生的に「……ので」「……のに」といった表現も生まれていきます。
菊地 その一方で、現代でもなお例外的に「逃げるは恥」といった表現が使われることもあります。この、文を名詞化する「の」については、「こと」との使い分けが学習者を悩ませるものになります。「の」と「こと」は、どちらも文を名詞化するときの表現ですが、使い分けがあるわけですね。たとえば、「私は泳ぐのが好きです」という場合は、やや表現が硬くはなりますが「私は泳ぐことが好きです」とも言えます。ただ、いつでも「の」でも「こと」でもいいというわけではなくて、先程の「彼が出発したのを見た」は、「の」はいいですが、これを「こと」に変えて「彼が出発したことを見た」とは言えない。一方、「二等辺三角形の二つの角が等しいのを証明しなさい」とは言えず、「等しいことを証明しなさい」と言わなければならない。つまり、名詞化する言い方として、「の」「こと」どちらでもいい場合と、「の」しか使えない場合、また「こと」しか使えない場合があるわけです。これが〈「の」と「こと」の問題〉です。学習者にとってはまことに悩ましい問題ですが、実は日本語教授者や現代語の文法研究者にとっても現状ではまだちゃんと説明しきれていません。つまり、どんな場合にはどっち、といったルールが見出せればいいのですが、それがまだちゃんとは見つけきれていない。そういう問題なわけです。「の」か「こと」かという、それだけのことなのに、なかなか奥が深い(笑)。日本語史の観点からも、どうして「の」が入るようになったのかとか、興味の尽きないテーマです。
吉田 日本語学が取り組みうる題材は、まだまだたくさんありますね。
菊地 今回はできる限り、中世を専門とする吉田先生と現代語を研究する私というふたりの守備範囲のなかでお話してきたわけですが、この場に近世の先生がいらしたら、また別の知見をたくさんご教示くださることでしょう。議論はより広がっていくことと思います。異なる時代の日本語学者同士が語り合うことには、さまざまな可能性が潜んでいると思います。
菊地 康人
研究分野
言語学,日本語学,日本語教育学
論文
文法的な見方を活かす授受動詞の日本語教育設計(2023/03/31)
日本語教育の受身の指導法改善と,被害の有無の識別法-〈さし向け〉による受身の捉え直しと,その日本語学への提案-(2022/12/23)