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日本語文法でなぜその変化が生まれていくのか?

日本語学対談:古典語と現代語に橋をかける ー第3回ー

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文学部 教授 菊地 康人・文学部 教授 吉田 永弘

2024年3月15日更新

 日本語文法が変化する歴史を追うなかで生まれる、「なぜその変化が生まれたのか」を社会背景などから説明したいという欲求。しかしその誘惑に抗うことも、日本語学の研究者にとっては大切なのだという。いったい何に気をつけ、どう研究を進めているのだろう。

 菊地康人・文学部日本文学科教授と、吉田永弘・同教授によるシリーズ「日本語学対談:古典語と現代語に橋をかける」第3回。古典日本語の世界で一例しか用例が見つからない文法表現から、留学生などの現代日本語の学習者が戸惑う文法表現まで、話にますます花が咲く。

 

吉田 現代日本語における一過性の現象をどう考えるか、というお話が前回出ました。古典語においては基本的に、一過性のことばや表現は文字として資料に書かれないので、よくわからないところがあります。それでも、一時期だけしか使われていない文法表現が見つかることはあるんです。

菊地 どんなものがあるんでしょう。

吉田 たとえば「べし」や「なり」なら、読者の皆さんも見聞きしたことがあると思いますが、「べらなり」という表現が存在していまして、しかも古今和歌集の時代ぐらいしか使われていないものなんです。その前の奈良時代の資料にも見当たらず、古今集の時代においてだけ歌などに詠みこまれるかたちで使われ、その後の源氏物語の時代にはまた使われなくなってしまう。そうした一過性の言葉は、よくわからないものではありつつ、古典語の世界でも散見されます。

 他にも、平家物語の最も古い写本である延慶本にだけ登場する、「なむし」という表現があります。これは後の世で「知らなんだ」などと言うときの「……なんだ」に関係がある、と指摘している人がいまから百年ほど前にいるのですが、その後の研究者たちがさまざまな資料を見ていても「なむし」の用例が見当たらず、一例しかない表現として知られています。

菊地 一例だけの文法表現ですか、面白いですね。一過性ということは、広く歴史的なスパンを考えることで見えてくるわけですね。

 現代語の専門家のなかでも、自身の興味を持っている現象に関して、古典語の文献まで遡ってあとづけていこうという人も、当然います。ただ長い変化の歴史をどうとらえるかは、なかなか難しい。へたをすると、恣意的なストーリーを描いてしまいかねないことにもなります。

吉田 古典語の場合は、現代語の研究者の方のように変化や現象の最中を生きるということはないので、後からその変化を位置づければいいとは言えます。しかしその場合でも、私自身は、あえて限定的に考察するということを意識しています。

 というのも、「なぜこのような変化をしたのか」ということを無理に理論づけようとすると、途端に正確性が危うくなることがあるからです。私はそうした説明をせず、たとえばある文法表現の意味がAからBに変わったのなら、その変化の前にBの意味を表していた、いわば代わりになっていた表現は何なのだろうというように、他の形と結びつけながら論じるようにしています。

菊地 現代日本語を研究したり、私のように海外からの留学生を相手に日本語教育にも取り組んできたりしていますと、改めて歴史的な変遷が気になる表現が出てきます。たとえば、日本語教育の現場で学習者が不思議に感じるのは、補助動詞です。「……ている」「……てある」「……てみる」「……てしまう」「……ておく」といった「て+補助動詞」を、現代語で私たちはよく使っていますよね。

 当然、日本語教育でも学習項目なわけですが、実は日本語以外のたいていの言語には、こうした言い方はあまりありません。「……ている」という意味を表す言い方だけは、たいていありますが、他の「……てある」「……てみる」「……てしまう」「……ておく」などは、学習者からすれば、こんなこと、私の母語では言わないんですけど……、これはいったい何なんですか、ということなんです。

吉田 なるほど、興味深いです。

菊地 当然、海外からの留学生が日本語のこうした表現を習得するのも、すんなりとはいきにくい。日本語教授者としては、こういう表現があるのだから覚えてくれたまえと言うほかないのですが(笑)、一方で現代語の文法学者としては、こうした言い方が、いったいいつ頃から、どういうふうにして存在するようになったのだろうということが気になります。日本語で大昔から存在する表現ではなく、どこかの時点で生まれた表現なわけですね。

吉田 現代語の補助動詞としては、「……ておく」のように動詞に「て」がつく形がほとんどですけれども、古典語だと当初は「て」がつかず、やがて「て」がついていくようになります。「……おく」が使われていたのが「……ておく」になる──具体的に資料に用例があるかを別にして申し上げますと、「書きおく」だったのが「書いておく」になっていく、ということですね。このように「て」がつくかたちで定着していくのは、中世のことなんです。

(第4回に続く)

 

菊地 康人

論文

文法的な見方を活かす授受動詞の日本語教育設計(2023/03/31)

日本語教育の受身の指導法改善と,被害の有無の識別法-〈さし向け〉による受身の捉え直しと,その日本語学への提案-(2022/12/23)

研究分野

国語学

論文

栄花物語の敬語―正篇と続篇と―(2024/02/25)

「思ふ・見る・聞く」の「(ら)る」形―複合動詞と主体敬語―(2022/10/27)

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