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未大成の検非違使研究―小川清太郎の自筆原稿群

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研究開発推進機構 助教(特別専任) 比企貴之

2024年2月19日更新

 國學院大學法学部教授であった小川清太郎(1909―73年)は、昭和18(1943)年に本学の講師となり、アジア・太平洋戦争終結後に政経学部が創設された際、法学と経済学の錚々(そうそう)たる教員陣容のうちの一人として着任した。在職中は法学や民法を担当し、学務の要職も歴任したほか、律令・式内社研究の権威であった瀧川政次郎が退職すると日本法制史を大学院で担当した。他方、長年にわたり家庭裁判所の調停委員としても尽力し、のち藍綬褒章を受章した。このような経歴から、本学で小川というと、民法の先生という印象が先立つことだろう。

 ところが、彼の処女論文かつ出世作は、小川がまだ早稲田大学大学院の院生だった頃に発表した「庁例の研究」(昭和12年)と「検非違使の研究」(昭和13年。ともに『早稲田法学』掲載)であり、もともとは日本法制史の研究を本領としていたのである。加えてこの二つの論文は、当時早稲田大学大学院に出講していた瀧川の指導のもと執筆したもので、その史料収集の網羅性と叙述の体系性と論理性は、とても一院生のそれとは思えない高水準を誇り、今日に至るまで、この方面に関する基礎的文献としての耀(かがや)きを失っていない(昭和63 年に名著普及会から『検非違使の研究・庁例の研究』として復刻刊行)。

 しかしながら、在職中の小川はすでに法制史への関心を失っていたとされ、その後、ついに彼の検非違使および庁例に関する研究が総括されることはなかった。後年、瀧川は「あれ(小川*論者注)早稲田の大学院でわたしが教えましてね、それで検非違使の論文を書かせたんです。検非違使の考え方をあれにやらした。それはもう非常に優れた論文でしてね。その後殆んど論文書かないんだよ彼はね。」と述懐している。

 こうしたなかで先年、幸運にも小川の自筆原稿群の寄贈を得た。200字詰め原稿用紙で381枚におよぶ原稿の束が主で、書名は不明ながら目次には「第一部 検非違使」「第二部 検非違使庁」「第三部 庁例」とあり、筆意も考慮するに検非違使・庁例に関する知見を一般書としてまとめ直そうとした、その草稿らしい。現在残る381枚は第一部第一章相当分のようだが、驚嘆すべき大分な構想といえよう。使用された原稿用紙・用箋は早稲田大学・日本大学・東京帝国大学・国民精神文化研究所のものなので、大学院修了後、職を経るなかでまとめていったもののようだ。他に大量のメモ・草稿案も残るが、再三再四におよぶリライトの痕跡があり、産みの苦悩が滲(にじ)み出るようである。

 本学における国法の学というと、黎明期に植木直一郎を見、近くは瀧川の存在が際立って偉大であるが、小川の自筆原稿群は、その系譜が脈々とそして着実に継承されてきたことを物語っている。

小川清太郎の自筆原稿

学報連載コラム「学問の道」(第55回)

比企 貴之

研究分野

日本中世史、神社史、神祇信仰、神社史料、伊勢神宮、石清水八幡宮

論文

幻の『男山八幡宮史料』(2024/09/15)

大正八年 八代国治日記(2024/03/06)

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