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丹念な史料読解の積み重ねが「清華成」の発見に繋がった

史料の森から新たな歴史的事実を見出す ―後編―

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文学部 教授 矢部 健太郎

2023年12月1日更新

 豊臣政権といえば、江戸幕府が成立する前にたちあらわれた、近世への過渡期の独裁的な支配秩序である──そんな教科書的なイメージは、実は徳川家康以降につくられた説明にもとづくものなのだと、矢部健太郎・文学部史学科教授は語る。

 平成28(2016)年には、秀吉の命による豊臣秀次の「切腹」、という通説を覆す新説を一般書にまとめ、広く耳目を集めた矢部教授。その“新説”はしかし、普段の実直な史料読解の積み重ねの上に成り立っているのだとわかるのが、本インタビューだ。歴史研究者としての足跡を訪ねた前編に続き、後編では「清華成(せいがなり)」大名という研究のキーワードも踏まえ、より歴史の醍醐味に満ちた議論へと分け入っていく。

 

 織豊期における公武関係について研究するようになった経緯について、私自身の人生とともに、戦後の歴史研究の潮流などにも触れながら、インタビュー前編でお話ししてきました。かつて、この時代の朝廷の存在や意義にはほとんど注目されていなかった時期もあったのですが、実際は重要な存在だったのではないか。豊臣政権は朝廷・公家社会といかに関係性を築くかを細やかに考えており、その関係性を武家社会の統治へと敷衍(ふえん)させていたのではないかというのが、私の見解です。

 秀吉の関白任官は、日本史上初めてとなる「武家関白」の誕生を意味していました。これは、公家社会の頂点にも武家が君臨していることを意味しています。そのように朝廷からの任官による地位を、大名中心の武家社会を統治していくにあたって、秀吉はどのように活用していったのか、史料にあたりながら考えているんです。

 考えてみていただきたいのですが、関白である秀吉が偉いということだけであれば、豊臣政権は一代限りで終わってしまうわけです。そのように豊臣政権が権力構造を確立できず崩壊した後に江戸幕府が成立する、というのがよく知られる教科書的説明でもあります。

 しかし、実際はそうではなかったのではないか。天下をとった秀吉が、跡継ぎも生まれているのに、自分だけの栄華で終わっていいと思ったはずがない。この体制が長く続いてほしいと願い、そのための権力構造を模索して、何かしらの装置を設けたのではないかというのが、私の問いの発端でした。

 インタビュー前編でお話ししたような1990年代においても、まさにその装置として、武家官位制度に着目する議論はされていました。これは関白・秀吉を頂点とするピラミッド構造であり、「五大老筆頭」とされる家康が秀吉死後、石田三成を関ヶ原の合戦で破り、江戸幕府を立ち上げていく……という説明をスムーズに成立させる、うってつけの装置です。

 しかし、「武家関白」を頂点とする豊臣政権と、「征夷大将軍」を頂点とする徳川政権が、まったく同じ「武家官位」にもとづいていたとは考えにくいのではないでしょうか。「近世への連続性」を重視して、武家官位制度や「五大老」という観点で豊臣政権を論じ、豊臣期の独自色を消していく歴史観自体が、江戸期に成立したものであると私は見ています。

 もちろん制度がすべて異なるわけではなく、豊臣期から継続していった部分もあるはずです。しかし考えるべきはむしろ「中世との連続性」であり、公武関係をもとにした、大名支配秩序を可能にする権力構造なのではないか。

 私が注目しているのが、「清華成」大名という、秀吉が新たに創出した身分集団です。これは武家官位制度のように個人に与えられる官位ではなく、秀吉が公家衆とのかかわりのなかから生みだした、「家格改革」の結果作り出された地位でした。

 というのも秀吉が関白になってしまったがゆえに、公家衆との饗宴の場でも、伝統的な慣例における「家格の壁」が立ちはだかり、大名たちを含めた武家衆とは酒食をともにできないようになってしまっていました。ここで秀吉が提案したのが、摂関家・親王・門跡らに継ぐ第二のグループとしての清華家という「家格」の者を同席させるという改革でした。

 秀吉はさらに、旧戦国大名の中から限られた者を「清華成」大名という「家格」につけ、豊臣政権における大名支配秩序へと援用していきました。この第二のグループの大名たちのなかで相互に牽制し合う関係性をつくりつつ、同時に豊臣家とのあいだには絶対に越えられない「家格の壁」を築き上げた、というわけです。

 この「清華成」大名を組み込んだ「武家家格制」によって、仮に秀吉が死んだとしても豊臣家はトップのままで居続け、子孫たちが支配秩序を引き継いでいく。秀吉は、こうしたシステムを築き上げようとした、というのが史料にもとづいた私の見解です。

 こうした新たな歴史の見方を立ち上げるには、できるかぎり丹念に史料にあたり、検証するほかはありません。「清華」といった文言を、つぶさに拾い上げていくわけです。ありがたいのは、少しずつ積み上げた知見などを発表していると、「この史料にもあったよ」と、他の研究者や先生方がご教示くださることでした。私の指導教授は、丁寧に教えてくださった上で、私の新説に反論する文章を書いておられました。

 それにまた私も反証を加えていくわけですが、こうしたやり取りは実に嬉しいことなのです。研究者としては、せっかくの研究に、何のリアクションもないことのほうが悲しい。研究者でもある父はよくいっていました、「論文を書いたならば、無視されるよりは八つ裂きにされるほうが幸せだ」と(笑)。

 ここまで述べてきたような観点をもとに書いた『豊臣政権の支配秩序と朝廷』(吉川弘文館、2011年12月)『関ヶ原合戦と石田三成』(吉川弘文館、2013年12月)に加え、豊臣政権の後継者である秀次が「切腹」したのは秀吉の乱心によるものではなくアクシデントだった──既にご理解いただけるように、秀次に「切腹」を命じるのは、豊臣政権という持続的なシステムに対する自己否定です──という新説を掲げて広く注目いただいた『関白秀次の切腹』(KADOKAWA、2016年3月)など、史料を読むなかで抱く通説への違和感を大切にしながら、研究を進めています。近年書いた論文では、「刀狩令」は「全国的な一揆禁止」などを目論んで一律に実施されたのではなく、秀吉の権勢を示す聚楽第行幸に参列しなかった大名たちに対して、法的な主従関係を確認させるために限定的に出されたものであると論じました。

 新説といっても、先達の方々の蓄積の上に、わずかに薄い紙を一枚重ねるようなものです。その内容が多少振り切っているように見える場合に新説といわれるわけですが、歴史学者は誰もがこうした薄い紙を一枚一枚重ねているのだ──そう私は感じながら、史料と向き合う仕事を続けているところなのです。

 

 

 

矢部 健太郎

研究分野

戦国・織豊期の政治史・公武関係史

論文

「中近世移行期の皇位継承と武家権力」(2019/11/01)

「豊臣政権と上杉家」(2017/11/01)

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