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神話を感じる場所での撮影で見えてくるものとは

神話は楽しく、奥深い -後編-

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神道文化学部 教授 平藤 喜久子

2023年8月15日更新

 神話は楽しい、そして奥深い。だからこそ扱い方には気をつけるべき点があると、平藤喜久子・神道文化学部教授は語る。「神話学」を語ったインタビュー前編を踏まえ、この後編で考えるのは、そんな注意ポイントだ。ポップカルチャーとして表現が伝播していくときに起こる、思わぬハレーション。あるいは日本の戦前期を省みたときに教訓となる、神話を「比較」することの意味──。

 これらを踏まえたうえであれば、神話は現代人にとって、改めて豊かな存在となるのかもしれない。平藤教授自身がいま、「神話を感じる場所」を写真に撮ることに傾倒している、というように。

 漫画やゲーム・アニメなどのポップカルチャーにおいて、国内外の神々や神話が表現されてきていることは、非常に興味深いですし、面白い研究対象です。一方で、それらが産業として海外に輸出されていくときに、日本の神々を自由に描く感覚のままに海外の神々を表現すると、思わぬ事態を招いてしまうことがあります。

 たとえば近年も、ある大人気アニメがイスラームのクルアーンを不適切にアニメ内で使用して問題になったり、ゲームのBGMに宗教的な音楽を使って製品回収になったというケースがあります。これは直接的に神や神話を表象したケースではありませんが、たとえば他にもアプリゲームにおいて、海外神話の女神をモチーフにしたキャラクターの衣装があまりに肌の露出が過多、というケースは珍しくないでしょう。

 ポップカルチャーというものは、日本国内での消費に収まるものではなく、グローバルに拡散していくものです。そうした状況のなか、自分たちが表現しているものが国際的な基準からどう見えるのかという視点──いわゆる「宗教リテラシー」は、やはり必要になってきます。

 神や神話がポップカルチャーのなかでどんどん表現されていること自体は、繰り返すようにとても面白いことです。一方でその神や神話の背後には、それらを信じてきた人たち、大事にしてきた人たちが実際にいるということを忘れてはなりません。ポップカルチャーの表現というのは、そこに含まれた政治性が見えづらくなりがちなので、なおさら細心の注意が求められます。

 ギリシャ神話も北欧神話も日本神話も、すべて開かれた文化資産であるわけですが、だからこそきちんとした知識を前提としつつ使ってもらえるよう、そして考えを深めていっていただけるようにしたい。私も書籍なども、その一助となれればと思っています。

 ここまでは現代のお話をしてきましたが、神や神話について留意すべきだと感じるもうひとつのポイントは、歴史を遡るなかに見出だされます。

 私の研究テーマのひとつにかかわるのですが、近代、特に昭和前期・ファシズム期において日本の神話研究がナショナリズムとどういう関係を築いていたのかという点に、関心を抱き続けています。たとえば三品彰英という研究者は、日本神話と、朝鮮に象徴される北方系神話を「比較」するなかで、当時の植民地支配を正当化するような議論を展開しているんです。

 神話を「比較」するとき、さらには自分の思想や自分が生きる時代に引きつけて語る場合はなおさら、対象に優劣をつけてはならない──。このことを、私たちは常に意識すべきだと思います。

 インタビュー前編で触れたように、神話学という学問は元来、神話と神話を「比較」するという性質をもちます。これは神話学の基礎を築いたマックス・ミュラーらが重視した視点であるわけですが、一方で当時から、「比較」が含みうる危うさを自覚した議論が積み重ねられてきました。

 神話学はヨーロッパで生まれた学問ですから、そこで行われる「比較」において、キリスト教が優れているのだという視点が前提とされてはいけない。優劣を語るための「比較」ではないのだという倫理が、神話学のスタート地点に刻まれているわけです。

 そもそも神話は、それぞれの文化や民族と強く結びつき、また国の成り立ちなどを語っている場合が多い。だからこそ、「比較」が優劣の判断を伴うことがあってはなりませんし、そうした危うい過去の議論や視点を現在に持ち込むこともまた、避けるべきでしょう。神話学の原点を、忘れないようにしたいと思います。

 こうしたポイントをおさえながらであれば、やはり神話というものはとても楽しいものです。私もまた、現代の人びとにとって神や神話はどのように感じとられているのか、さらにはどう表現されるのか、興味が尽きません。

 実は最近私は、「神話を感じる場所」を写真に撮る、ということに熱心に取り組んでいます。写真家の先生方に教えていただきつつ、出かけていっては撮影するのがとても楽しいんです。

 「神話を感じる場所」というのは、決して安易にスピリチュアルなことをいっているわけではありません。神話の舞台とされてきた場所が各地にあるわけですね。

 たとえば日本神話における天孫降臨の場所だと伝えられてきた地というものは、昔から人びとがその場所に何を見てきたのかを考えさせる地でもある。実際に神に会ってはいないけれど、人びとが「こここそが神話の舞台だ」と思ってきたことの理由が、きっとあるわけです。

 ものすごく不思議な地形になっているとか、朝日が昇る様子があまりに綺麗であるとか、神話をまるで経験したかのように感じさせる理由には、いろいろなものがあるでしょう。私はそうした「神話を感じる場所」に赴きながら、「ああ、こういうふうに見えるものなんだ」という感覚を写真におさめたいと思っているんです。

 もちろんまだ勉強の途中なのですが、これまで神や神話の表現を研究し、そこでの発見を「書く」ことを学んできたように、「撮る」ことを学んで、自分が感じたことを伝えてみたい。あるいはそうした行為自体が客観的に何を意味するのかを、また考えてみたいんです。

 

人を魅了してきた神話を研究する平藤喜久子教授が語る前編「神や神話の表現を探索することは、世の中の神や神話の捉え方を映し出す」はこちらをタップして進んでください

 

 

平藤 喜久子

研究分野

神話学 宗教学 宗教史

論文

「戦間期の神々―多神教の諸相」(2023/09/08)

比較神話学から読む『遠野物語』(2022/06/24)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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