15区から、新たに20区を設け、35区へ。
昭和7(1932)年。東京市は隣接5郡82町村を併合し、35区を有する人口約500万人の都市・大東京へと生まれ変わった。
そのとき新設された「区」の一つが、「渋谷区」だ。現在の東京23区は、この35区を母体とする。
渋谷区の前身、豊多摩郡渋谷村は、かつては国木田独歩の『武蔵野』に描かれるような原野の広がる場所だった。しかし、日本の近代化とともに渋谷は東京屈指の新市街として発展し「渋谷町」となり、ついには「渋谷区」となる。
渋谷町と隣接する千駄ヶ谷町・代々幡町が合併することで「渋谷区」は産声を上げる。だが、そこにいたるまでに紆余曲折があったことは想像に難しくない。市町村の合併には、合従連衡がつきものだからだ。
旧住民と新住民の対立、公友会と朝倉虎治郎の存在、千駄ヶ谷町の分離運動――。風雪の末に誕生した「渋谷区」。なぜ渋谷は、「渋谷区」になりえたのか? 國學院大學文学部史学科准教授・手塚雄太先生の解説とともに、3回にわたって概括する。
東京の歴史を振り返るとき、現在の東京都がかつては東京府と呼ばれ、その下に東京市があったことは、あまり知られていないことかもしれない。
明治11(1878)年7月、東京府は府下を区と郡にわけ東京15区を設け、明治22(1889)年5月には東京15区を範囲に東京市が設置され、15区は東京市の下部組織となった。
「現在からすればとても狭い範囲である東京市15区ですが、もともとその範囲は江戸時代に定められた江戸市中の範囲に源流があります」
そう話すのは、國學院大學文学部史学科准教授・手塚雄太先生。今回、渋谷区生誕の歴史を語る案内人だ。
さかのぼること文政元(1818)年、幕府は江戸の地図に、二つの線を引く。
一つは、赤い境界線、“ 朱引(しゅびき)”。その内側を江戸市中、すなわち御府内と明らかにし、この域内においては、寺社建立などのため寄付を募ることを許可された。そうしてもう一つが、黒い境界線、“墨引(すみびき)”。朱引よりも少し狭い範囲を示し、町奉行が支配する地域として明確化した。
明治2(1869)年、明治新政府は、皇居を中心とした新しい朱引を定め、朱引の内側を「市街地」とし、外側を「郷村地」と位置づけるのだが、その朱引の範疇は、かつての墨引の範囲に近い。そして、彼らはその範囲を15の区にわけたのち、明治22(1889)年にその範囲を東京市と定め、都市計画を進めていく。東京の近代は、江戸の名残を基盤として成り立っている、そのヒントを江戸の「線」は教えてくれる。
一体的な都市経営を行うための大東京構想
「東京が近代日本の政治的かつ経済的な中心になっていく中で、多くの人々が集まるようになります。当然、東京市の人口はどんどん増えていきます。人口が増えていくなかで、隣接している町村にも人口が流出していく」(手塚先生)
15区時代、隣接する町村とは、荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の5郡に置かれた82町村のことを指す。この時代は渋谷区だけでなく、豊島区や世田谷区なども町や村だった。のちに渋谷区となる地域は豊多摩郡に属し、江戸時代の朱引と墨引の中間に位置する場所だった。目と鼻の先には、東京市赤坂区があった。
「東京が大都市として発展するなかで、人流は鉄道網や道路網の整備とともに郊外へ広がっていく」と手塚先生が説明するように、東京市に近い場所に位置する渋谷は、もっともその影響を受けやすいフロンティア。後に、大発展を遂げる新宿も同じ条件を備えていた。
「大正9(1920)年の第1回国勢調査によると、東京市と隣接5郡82町村の人口は、市部約217万人、郡部約117万人です。その10年後である昭和5(1930)年は、市部は約207万人とさほど変わりありません。これは東京市の人口が飽和状態になっているためです。対して郡部は、約289万人まで膨れ上がっています。10年間で郡部の人口は246%増加し、東京全体の人口も150%増加している。こうなると、周辺町村を含めて、東京市とともに一体的な都市経営を行うべきではないのかという論調が高まっていきます」(手塚先生、以下同)
人口が流入する5郡82町村は、それぞれ独力で小学校や上下水道、病院といったインフラを整備する必要に迫られた。しかし、手塚先生が「もともと財政規模が大きいわけではない町村は、急激な人口増加に対応できない」と指摘するように限界があった。そこで、東京市が周辺の町村を合併・再編することで、一体的な都市経営を行おうという発想が「大東京」構想の前提となる。
「郊外に人口が流入していく要因として、関東大震災の影響はよく指摘されるところです。ですが、東京市に隣接する渋谷町と千駄ヶ谷町では、周辺に軍事施設が置かれたり、鉄道・道路網が整備されたこともあって、日露戦争くらいから人口が増えていきました」(手塚先生)
明治20(1887)年前後に青山、駒場、駒沢などに練兵場が設置されたことで渋谷村域には人が集まるようになる。明治37(1904)年に甲武鉄道(JR中央本線の前身)の千駄ヶ谷駅が開業したことで、日清戦争後から徐々に人口が増えていた千駄ヶ谷村域も飽和状態になっていく。千駄ヶ谷村は明治40(1907)年に、渋谷村は明治42(1909)年、それぞれ村から町になった。
※参照「明治22(1889)~昭和初期の渋谷区域字名・字界地図」(渋谷区立図書館ホームページ(https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/?page_id=218))
膨張する渋谷、東京
とりわけ、渋谷町の発展は目覚ましいものがあった。昭和元(1926)年になると、人口約11万人まで膨張し、東京府下では随一の人口を誇るまでになる。この人口数は、当時全国101市のうち、19位の八幡市(現在の北九州市の一部)と20位の新潟市の間に位置するほどだ。全国でも有数の町だったことが十分に見て取れるだろう。
「東京市が発展していく中で、近代化が進む町村に関しては、いわゆる小合併のようなことも考えられた。しかし、そうなると一体どこからどこまでを合併するんだという話になる。隣接する82町村、――これらを合併することで35区になり、現在の東京23区を形作るわけですが、発展のスピードに差異こそあれ、82町村が都市化していくことは容易に想像できる。であれば、大きな合併をしましょうという議論に帰着した」
この時期、日本では東京だけではなく、大阪や名古屋といった大都市でも「大〇〇」構想というものが叫ばれていた。「この時期は全国各地で「大○○」を目指して都市域の拡張や周辺町村の合併をはかる都市間競争が起きていました」。そう手塚先生が話すように、実際に大阪では、大阪市は44町村を編入し(大正14(1925)年)、人口約211万人の大都市を形成。東京府東京市をしのぐ日本一の人口数を有する「大大阪」と呼ばれた時代もあった。
ところで――。なぜ東京は「都」になったのか? 気になる人もいるだろう。手塚先生が概説する。
「「帝都」東京には別の制度を適用してほしいという議論は、1890年代後半からありました。東京市は、内務省と東京府の二重監督のもとにありましたから、東京市はなんとかこれを解消し、権限を拡大したいと考えました。東京市だけでなく、大阪市・横浜市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市といった大都市では、普通の市とは違う特別な制度を適用してほしいという議論もありました。今で言う政令指定都市制度とも通ずるところがあります」
また、首都である東京は、他の大都市とも異なる扱いにすべきという議論もあったという。
「政府が都制案を議会に提出しましたが、都のトップを選挙で選ぶか、内務省が選ぶかなどで議論が紛糾し、まとまりませんでした。昭和18(1943)年になり、東京府と東京市を統廃合する都制が施行されて「東京都」ができますが、これは戦争という非常時が実現させたものといえるでしょう」
東京府と東京市の力関係
となると気になるのは、当時の東京府と東京市のパワーバランスだろう。
「東京府と東京市の力関係……時期によっても違うし、それはかなり難しい(笑)。東京には府があって、市町村があるだけでなく、東京市の下に区があり、区には区会がありました。東京府・東京市・区の三重行政になっているわけです。ざっくりいえば、この関係をどう整理するべきか、というのが論点の一つでした。ましてや東京は首都ですから、国も首都の事業に関与しようとするのでよりややこしくなるわけです。そのような3層構造を解決するために、戦時中に東京都が作られたわけですが、そのあともすったもんだがありました」
先述したように、1932(昭和7)年に、東京市は35区を擁する「大東京」となる。これにより実に、東京府の人口の約93%を東京市の住人が占めることになり、当然、税金の総額も、そのほとんどが東京市民によるものとなる。「府」よりも「市」の声が大きくなるのは想像に難しくない。
一方、手塚先生は「区の自治権はかなり小さかった」と付言する。
「昭和7(1932)年の渋谷区の予算規模を見ると、渋谷町時代と比べて相当小さいことがわかります。町村は財源を別とすれば運営可能な自主的な仕事はかなりありました。ただし、区となり東京市に編入されると、区会議員はいますが区長は東京市の職員になります。仕事も学校の運営などに限られます。もともと一体的な都市経営のための必要から82町村は区に再編されて東京市に合併したわけですが、区の自治権に関する問題が尾を引いて、戦後の東京都では、区が区長公選などを求める自治権拡張運動という運動を起こしたほどです」
では、渋谷区になる前の渋谷町時代、その町長、あるいは他82町村の町長・村長の権限はどうか?
「町長の権限は、東京市の職員から任命されていた区長と比べれば大きい。ただ、現在と比べれば弱い。戦前と戦後で地方自治の制度がまったく違います。なかでも重要な点の一つは市区町村長が直接選挙で選ばれていないことです。市と町村で少し制度が違うのですが、いずれにせよ市会・町会・村会という議会で候補を決めていました。そのため、市町村長の立場は今以上に議会の状況に左右されがちでした」
裏を返せば、直接選挙で選ばれたリーダーは影響力があり、民意を反映しやすいということ。しかし、当時はその手段がない。困惑するのは、そこで暮らす人々だろう。人が流入し、想像を超える速度で町の規模が大きくなる。そうした中で、まつりごとが足を引っ張っては本末転倒だ。
地域住民の合理性や利益をどう実現しながら、「区」として新たに生まれ変わるか。それを実現するために奔走したのが、朝倉虎治郎と公友会である。渋谷区創設のキーパーソンとはいかなる人物だったのか。その足跡をたどる。
(パート2へ続く)
取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(原生林) 企画制作:國學院大學
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