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「渋谷区」新設のキーパーソン、”米商”朝倉虎治郎とは何者か――

東京35区時代 渋谷町はどうして「渋谷区」になったのか~Part2~

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文学部 准教授 手塚 雄太

2022年10月1日更新

 15区から、新たに20区を設け、35区へ。

 昭和7(1932)年。東京市は隣接5郡82町村を併合し、35区を有する人口約500万人の都市・大東京へと生まれ変わった。

 そのとき新設された「区」の一つが、「渋谷区」だ。現在の東京23区は、この35区を母体とする。

 渋谷区の前身、豊多摩郡渋谷村は、かつては国木田独歩の『武蔵野』に描かれるような原野の広がる場所だった。しかし、日本の近代化とともに渋谷は東京屈指の新市街として発展し「渋谷町」となり、ついには「渋谷区」となる。

 渋谷町と隣接する千駄ヶ谷町・代々幡町が合併することで「渋谷区」は産声を上げる。だが、そこにいたるまでに紆余曲折があったことは想像に難しくない。市町村の合併には、合従連衡がつきものだからだ。

 旧住民と新住民の対立、公友会と朝倉虎治郎の存在、千駄ヶ谷町の分離運動――。風雪の末に誕生した「渋谷区」。なぜ渋谷は、「渋谷区」になりえたのか? 國學院大學文学部史学科准教授・手塚雄太先生の解説とともに、3回にわたって概括する。

◆ ◆ ◆

 明治後期から大正期。人々は求めるように、新興都市・渋谷を目指した。

 東京市の人口は飽和し、新住民は渋谷をはじめとした周辺地域に流入した。「既存の都市経営では立ち行かない」。そこで東京市は、周辺地域を含めた一体的な都市経営を行うため、隣接する5郡82町村を併合する形で20区の新設を決定する。

 渋谷区創設。その物語を語る上で欠かせないのが、公友会と朝倉虎治郎の存在だろう。公友会の歴史を、手塚雄太先生が紐解く。

 「公友会は、日露戦争後に結成されます。ちょうどその頃、渋谷村は渋谷町に生まれ変わるのですが、渋谷村は争いが絶えない地域でした。現在の地方自治法に相当する市制町村制という法律が明治21(1888)年に公布されます。翌年には江戸時代から続いていた町や村の合併が行われました。これを「明治の大合併」と呼んでいます。渋谷村は上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村という具合に三つにわかれていた地域を一つにしたわけですが、上・中渋谷と下渋谷には幕府時代から続く争いがあったといわれています」(手塚先生、以下同)

 

 江戸の名残が続く明治期は、旧幕府時代以来の対立が残存していた。これに輪をかけるように、発展目覚ましい渋谷に新住民たちが流れ込んでくる。既存の対立に加え、旧住民と新住民の対立もあり、渋谷はさまざまな感情がひしめくるつぼと化していた。

 「その事態を憂えた旧来の住民と新しい住民の有志、有識者たちによって結成されたのが、公友会なる組織でした。新しい団体を作ることで、安定した街作りを行うことを目的としたんですね」

「借金主義」の財政方針で拡張していく

 感情的対立を乗り越え、公友会は町政運営に乗り出す。

 「人口が増えているわけですから、たとえば小学校を作ろうという話になる。当然、そのための資金が必要になります。その際、借金をしてお金を工面するという話になるわけですが、当時の町長と公友会で意見の相違がありました」

 旧来の街作りを基盤とする町長は、大きい学校を作るとなると、その分借金も増えるため、「それほど大きな学校は必要ない」という。対して、渋谷の新時代を考える公友会は、「学校を作るのであれば、これからさらに増えるだろう新しい住民たちのことも考えて作らないといけない」と考える。

 「公友会は、大きな借金……つまり、多額の町債(公債)を発行しても、住民が増えるから回収できる、問題がないと主張します。先手を打って起債し、そこで得たお金を使って、きちんとした学校、インフラを整えましょうと。今では考えられないスローガンですが、「借金主義」の財政方針のもと、住み良き渋谷の建設を目指していく。公友会の方針を嫌った初代渋谷町長の松沢匡は辞職を余儀なくされ、二代目以降の町長は常に公友会の支持を受けていたことからも、彼らの影響力の大きさが窺えます」

 やや剛腕ではあるものの実際問題として、明治42(1909)年に結成された公友会が渋谷町にもたらした功績は大きかった。

 小学校校舎の増築・新設に始まり、町営住宅の建設、公会堂の建設、町営図書館、町立職業紹介所などを開設。さらには、大正末期になると町営水道を敷設し、渋谷町だけでなく、近隣の町村にも給水した。現在の世田谷区弦巻にある駒沢給水所は、その時代の残映である。82町村の一つに過ぎない渋谷町が、いかに先進性、資本力のある取り組みをしていたか想像に難しくないだろう。

 

弦巻にある駒沢給水所。当時の風景 (出典:『東京府渋谷町職員記念寫眞帖』渋谷町、昭和7(1932)年)

 「公友会のメンバーは、新住民の華族や高級軍人、実業家、いわばエスタブリッシュメントなどから成っていました。その一方で、地元の有志たちも実務を担っていた。その中の一人が朝倉虎治郎だった」

 『新修渋谷区史』を見ると、当時の公友会設立当初の主な会員が記載されている。その中に、朝倉虎次郎の名も確認できるのだが、肩書は“米商”とある。

 「朝倉家は、江戸時代から渋谷周辺に根を下ろしていて、遅くとも幕末には精米業を興し明治初年には小売も始めています。元々、虎治郎は愛知県の生まれでした。東京の材木店で働くなかで商才を見込まれ朝倉家に婿養子として入ります。商才があり、実務にも長けた人物だったのでしょう、虎治郎は米穀商として事業を大いに成長させる一方で、不動産事業などにも進出します。また、渋谷町会議員・東京府会議員なども務め、地元の繁栄に心血を注ぐようになります」

府会議員町会議員を兼任

 それにしても――。華族や軍人が名を連ねる中で、なぜ米穀商である朝倉虎治郎の存在が、重要人物としてクローズアップされるのか?

 「朝倉虎治郎は地域の発展に関心を持っていたため、渋谷という街の政治にも力を入れ、公友会を牽引しました」。そう手塚先生が語るように、朝倉虎治郎は、東京府会議長や渋谷町会議員を歴任し、活動の場を広げていく。

 「大正4(1915)年、東京府会議員に選出され、家業の米穀商を弟に委ねます。当時、すでに府会議員は直接選挙でしたから、彼は選挙区である豊多摩郡の東京府民によって選ばれたことになります。今の東京都議会選挙にあたります。有権者の数が限られていた制限選挙の時代ではありましたが、地元の支持が厚かったといえるでしょう」

 また、「現在は兼職できませんが、戦前は、府会議員と町会議員が兼任できた」と話すように、東京府だけではなく、渋谷町の政治にも積極的に介入していった。二つの議員を股にかけていた朝倉虎治郎だからこそ、隣接5郡82町村併合の重要性を訴えることができたという。

当時の渋谷町役場。 現在の氷川区民会館付近にあった(出典:『東京府渋谷町職員記念寫眞帖』渋谷町、昭和7(1932)年)

 「東京市による隣接5郡合併が本格化する昭和6(1931)年、彼は渋谷町だけではなく、併合される隣接5郡82町村サイドの代表者でもあった。東京市と周辺の町村をどのように合併するのかという話は、とても複雑で難しい問題でした。すべてを合併するとなると、合併する旧東京市(15区)よりも、合併される82町村―のちの新設20区―の方が面積も人口も大きくなってしまう。東京15区の住民は、「自分たちの方がおろそかになってしまうのではないか」「負担が多くなってしまうのではないか」と感じていた」

 渋谷町のように発展している地域なら理解も得られるだろう。しかし、82町村の中にはいまだ原風景が広がるような農村地域もあるわけで、「なぜそんな場所の面倒を見なければいけないのか」という声が上がるのも理解できる。実際、東京市内には合併を小規模にとどめようという意見も存在していた。

 隣接町村からすれば財政規模の大きい東京市に組み込まれれば、さまざまなメリットが見込める。しかし、東京市住民の思いは複雑だった。合併をめぐって思惑が錯綜する中で、「重要な役割を担ったのが、朝倉虎治郎だった」と手塚先生は話す。

一難去ってまた一難。渋谷区の新たな問題

 「東京はもっと発展する。だから、これからの発展のためにもすべて合併させる形が一番いいんだという話を進めた一人が朝倉でした。朝倉は82町村の有力者が参加した東京市郡併合期成同盟会の発起人総代となり、会長にも推されています。朝倉は会長として東京府・市に対して82町村の即時合併を要求しました。歴史にifはありませんし、朝倉ではなく、同じ考えを持つ他の誰かによって、同じ結末になっていたかもしれない。しかし、現在の東京23区を形作る、1932(昭和7)年の5郡82町村の大合併において、朝倉が果たした役割はとても大きかったと考えています」

 それでもあえて「もしも」で語るなら、このときすべてが合併されていなかったら、現在の東京都の区の形は変わっていたのかもしれない。

 西郷山公園から代官山交差点に向かって旧山手通りを歩くと、右手にデンマーク大使館、猿楽神社が見えてくる。そこから少し進んだところに、重要文化財・旧朝倉家住宅はある。この邸宅こそ、大正8(1919)年に、朝倉家の本宅として朝倉虎治郎が建てたものだった。西渋谷台地の縁に位置する旧朝倉家住宅から望む景観は、東京屈指の眺望を誇る。朝倉虎治郎は、ここからどんな東京の景色を見ていたのだろうか。

代官山にある旧朝倉家住宅

 東京府は昭和7(1932)年5月5日、隣接5郡82町村を東京市に編入するための内申書を内務大臣に提出し、10日には内諾を得た。こうして東京市による隣接町村の合併が本格化することになる。日本史上でも著名な「五・一五事件」の5日前のことであった。圧倒的な発展と行政的手腕を見せる渋谷町が、新たに東京市に組み込まれることに異を唱える者はいなかっただろう。隣接する千駄ヶ谷町、代々幡町にしても、東京市に合併されるに十分な町の要素を満たしていた。

 だが、「今でもそうですが、町村合併というのは揉めるものです」と手塚先生が苦笑するように、一筋縄ではいかなかった。

 「隣接5郡82町村は東京市への合併には賛成だが、渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町、それぞれの利害を考えると話は変わってくる。総論賛成各論反対、その最たるものだった」  

  一難去ってまた一難。なんと、千駄ヶ谷町、代々幡町が渋谷区への編入を拒み始めたのだ。「渋谷区という名称を変えるべし!」。とりわけ、千駄ヶ谷町の拒否感はすさまじいものがあった――。

パート3へ続く

 

 

取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(原生林) 企画制作:國學院大學

※写真の転載をお断りいたします。

 

 

 

 

手塚 雄太

研究分野

日本近現代史、日本政治史

論文

首都圏計画と住民運動:市川市・鎌ケ谷市を事例に(2024/03/28)

昭和戦前・戦時期における二大政党の政党組織と支持基盤 (2018年度 名古屋歴史科学研究会大会特集号 : 大会テーマ:近代日本の政党と政党指導者)(2019/08/23)

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