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立教史学の生みの親、小林秀雄

明治・大正・昭和を生きた研究者秘話

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学術メディアセンター事務部図書館事務課主幹 古山 悟由

2022年1月22日更新

 昭和18(1943)年、立教大学は文学部の閉鎖を決定した。その中の一学科である史学科の創設に尽力したのが西洋史学者・小林秀雄(1876-1955)である。小林は明治9(1876)年11月、旧会津藩士の子として青森県で生まれた。

小林秀雄

 國學院(第4期)、立教学校、日本中学などを経て31年第二高等学校に入学。卒業後、東京帝国大学文科大学史学科に入学、37年卒業。卒業後、仙台の東北学院に奉職した。43年、立教大学教授。44年広島高等師範学校に赴任した藤岡継平に代わって本学講師となる(歴史研究法)。大正9(1920)年教授、予科部長となるが、12年退職。その後は、立教大学の専任教授として、史学科を立ち上げ、史学科長・文学部長を歴任した。昭和3(1928)年11月には機関誌『史苑』を月刊誌として発刊(当時、月刊の歴史専門誌は『史学雑誌』『歴史地理』しか無かった。ちなみに本学の『国史学』は4年11月創刊である)。その後資金難となり第7巻から季刊誌となる。この『史苑』に小林はベルンハイムの『史学研究法』の翻訳を連載した。

 また、史学科内に「民族学」の講座をいち早く置いた(当時、「民族学」は東京帝大、台北帝大で講じられていた)。この「民族学」の講座は、小林の立教での初めての教え子である岡田太郎が担当したが、岡田は16年に亡くなってしまう(岡田の論考は戦後『民族学論攷』としてまとめられ、羽仁五郎が序文を寄せている。しかしながら、今日では岡田の業績はほとんど忘れ去られている)。この講座を小林が引き継ぐが、それにあたって、参考書としてグレーブナーの『民族学研究法』の翻訳を行った(本書の翻訳は岡正雄が著者から許諾を得ていたが、小林が岡に請うて翻訳を行った)。17年定年退職(名誉教授)。同年本学に復職し学部学監・教学部長として戦時下の学園で佐佐木行忠学長を支えた。

 戦後も西洋史を講じ、27年大学院文学研究科日本史学専攻開設にあたり、手持ちの洋書を寄贈し、大学院の科目も担当した(史学研究法)。29年金沢庄三郎、植木直一郎、河野省三とともに名誉教授となったが翌30年1月死去。

 生涯を通じて翻訳に当たった『史学研究法』は刊行されることがなかったが、晩年まで手を入れていたという。著書には『希臘古代文化史』(啓明社 昭和3年刊)、『羅馬文化史』(白東社 昭和7年刊)などがある。

 官学を出ながら留学もせず、私学に一生涯を捧げた人生であった。学報連載コラム「学問の道」(第40回)

 

 

 

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