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人類史全般への興味をもった幼少期を経て、いま考古学にとりくむ理由とは

深澤太郎 研究開発推進機構・准教授  前編

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研究開発推進機構 准教授 深澤 太郎

2022年1月11日更新

  

 令和3(2021)年秋、NHK総合で放送された『ブラタモリ』に出演した、深澤太郎・研究開発推進機構准教授。考古学者という物静かなイメージを裏切るポップな語り口が、話題を呼んだ。

 自らの歩みを探る本インタビューでは、そのポップさを支える真摯な研究哲学が垣間見えた。前後編で語られた考古学の“現在”は、思わぬ愉しさに満ちている。

 

 神道・神社の起源の研究に、古墳時代における埴輪の意義のとらえ直し、そして伊豆半島・伊豆諸島における修験道や民俗儀礼の調査……直近で僕が関心を抱いているものを挙げるだけでも、これだけの幅の広さになります。傍からはいささか浮気性に見えるかもしれませんし、僕自身たまに混乱することもあるのですが(笑)、実は一貫した興味のもとに研究を進めているつもりではあり、そのためにはこの幅の広さが必要だとも感じているのです。

 時間の針を少し巻き戻してお話ししたいと思います。そもそも山梨に生まれ育った子どもの頃は、「人類はどこからやってきて、どこへゆくのだろう」などと想像を巡らしているような変わり者でした。実際に、長野の野尻湖で旧石器時代の遺跡の発掘調査に参加するなどしていたのですが、こうした「人類史全般」への興味は、現在まで持続しています。

 10代前半で昭和天皇の崩御という社会的な出来事を目の当たりにしたことも、大きなターニングポイントでした。大喪の礼が行われ、明仁天皇(当時)の即位に際してもさまざまな儀式が執り行われましたね。1980年代後半、バブル期にある日本という社会のなかに、まるで歴史の古層がいきなり立ちあらわれたように感じられたものです。

 もちろん、明治時代以降に改めて整備された儀式が多いことも学んだわけですが、それでも子どもの僕は大きな衝撃を受けました。この国がどういうふうにできてきたのか、という興味がわき、古代国家が成立していく古墳時代が気になるようになったんですね。

 入学した國學院大學では、弥生時代末までバラバラだった社会を統合していく過程と、津々浦々の信仰をとりまとめて新しい宗教を作ろうとした3世紀の動きは、どうもパラレルなものだったらしいと気付かされました。「日本」の原型と、「神道」の原型は、車の両輪のようなものだったわけです。

 そうそう、これはこぼれ話ですが……。進学先を迷うなか、見学に國學院大學を訪ねた当日は、残念ながらキャンパスが閉まっていました。そのとき研究室からひょっこり顔をのぞかせ、声をかけてくださった髭とロン毛のおじさんが、恩師となる故・吉田恵二先生。本当に、偶然の出会い。その際、特別に観覧させて頂いたのが、今の國學院大学博物館の前身のひとつである考古学資料館。後に、自分がその博物館で仕事をすることになろうとは、夢にも思っていませんでしたねえ(笑)。

 研究の道を徐々に進んでいくなかで重要な土地になってきたのが、伊豆半島と伊豆諸島です。もともと伊豆半島および伊豆諸島は、大場磐雄先生による「神道考古学」の提唱以来、私たちにとって大事なフィールドでありつづけています。たとえば、学生時代から実習で足を運んできた三宅島をはじめ、伊豆諸島に広く見られる積石信仰や石神信仰は、僕の研究トピックのひとつになりました。

 伊豆半島では、「伊豆修験」の形成と展開についても研究しています。伊豆修験では、中世から半島の海岸沿いに点在する拝所を巡ってゆく「伊豆峯」辺路行が行われてきましたが、明治期の神仏分離によって歴史が途絶えてしまいました。四国であれば「お遍路」が民衆に開かれていましたから、明治期を乗り越えて現在でもつづいていますし、富士山でも、民衆主体の「富士講」が今ものこっています。しかし、いわばプロの修験者に限られていた「伊豆峯」の辺路行は、民衆からは閉ざされたものであったため、担い手を失ってしまったのですね。豊臣秀吉の北条攻めに伴う走湯山の一山炎上や、これも同じく明治の神仏分離の影響によって、記録もほとんど残されていません。なんとか、その辺路行の姿をとらえられないか。わずかな手がかりである、18世紀の記録『伊豆峯次第』などに記された拝所約300カ所の現在地比定や現地踏査などを進め、波に洗われているような海浜部に位置する修験窟の三次元測量も行いました。

 興味深かったのは、拝所のひとつである岩屋にのこされた、修験者の墨書です。現代風にいうと――厳密には「納札」ですから若干ニュアンスが違いますが――「〇〇参上!」というような意味合いだと理解してください。最も古い15世紀の墨書によれば、12月25日前後にそこで修行が行われたことがわかるのですが、実は『伊豆峯次第』でもこの岩屋は12月25日に訪ねることが定められた拝所なのだと記録されているのです。つまり15世紀と18世紀、ほぼ同じ日にその岩屋で修行が行われており、江戸期の伊豆修験の原型が15世紀段階で整っていたことがわかるわけです。

 18世紀の記録をもとに拝所を特定し、実際に歩いて調査するなかで、その拝所がどれくらい前から機能していたのか探り、伊豆修験のありようを徐々に遡っていく……。

 考古学というと、とにかく古い、特に“最古”の物事を探究すると考えられがちかもしれません。しかし、“最古”を探ろうとすれば、とにかくわからないことが多い。逆に、時代が新しくなればなるほど、情報は多い。そこから遡及的に調査研究を進めていけばいいのではないか――。僕はそう考えています。

 子どもの頃からの興味は、やがてルーツへの関心へ至りました。しかし、単に“最古”を探ることには困難が伴う。だからこそ、時代遡及的に物事を考えるようになってきたのです。

 論文などで好んで用いてきた表現に、「マツリのアトの静けさ」という言い回しがあります。扱う考古資料は、それ自体では何もモノを語りません。語らぬモノに語らせる考古学。その僕なりの考察が、インタビュー後編のテーマとなります。

 

 

 

 

深澤 太郎

研究分野

考古学・宗教考古学

論文

「伊豆峯」のみち―考古学からみた辺路修行の成立(2020/06/18)

常陸鏡塚古墳の発掘調査(2019/12/25)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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