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渋沢栄一と國學院大學の復興

「日本資本主義の父」が救った危機

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研究開発推進機構 准教授 渡邉 卓

2021年11月24日更新

 今年は「日本資本主義の父」と謳われた渋沢栄一の没後90年にあたり、新紙幣の肖像になることからも再び脚光を浴びている。渋沢は幕末から昭和までを生き、多くの企業に携わったことは言を俟たないが、実は國學院大學の歴史とも深く関わる人物なのである。

渋沢 栄一(しぶさわ・えいいち):1840〜1931年。埼玉県の農家に生まれ、若い頃に論語を学ぶ。明治維新の後、大蔵省を辞してからは、日本初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役に。その後、大阪紡績会社や東京瓦斯、田園都市(現・東京急行電鉄)、東京証券取引所、各鉄道会社をはじめ、約500もの企業に関わる。また、養育院の院長を務めるなど、社会活動にも力を注いだ。(写真:国立国会図書館)

 本学は明治35(1902)年、39年に二度の火災に遭い、復興と規模拡張を企図して、明治40年2月11日付けで「國學院大學拡張趣意書」が皇典講究所長・國學院大學長の佐佐木高行によって頒布された。このとき協力者たる「賛襄(さんじょう)」として、公爵・子爵・男爵など名だたる人物54人が委嘱され、そのなかに「男爵 渋沢栄一」の名もあった。渋沢はこれを契機として、翌年2月には皇典講究所顧問に就任し、事業拡張に尽力することとなった。顧問就任時には、金一千円を本学に寄付している。佐佐木所長・学長は、渋沢をはじめとする7人の顧問に、新校舎建築のための募金名義人を委嘱し、広く有志に向けて協力を要請した。

明治41年に竣工した飯田町校舎

 だが、募金活動は低調に終わり、銀行から融資を受けながら、41年4月に新校舎が竣工した。さらに同年2月に新設された國學院大學出版部の事業失敗も重なって、佐佐木に代わり鍋島直大が所長・学長に就任したときには、本学は巨額の負債を抱えていたのである。渋沢は、顧問として出版部が刊行した書籍を財界人に勧めるなど、人脈を活かした活動を行うだけでなく、財政立て直しのために非常な努力を払ったのであった。渋沢は、45年に、飯田町校地の一部を鉄道院に売却して急場をしのぐべく斡旋し、鍋島所長・学長のもと諸氏と協力しながら皇典講究所・國學院大學の維持経営に奔走したのであった。同年6月12日の協議員会において、本所・本学の会計調査の顚末を述べ、債務整理、償還に至った経緯を説明した。このとき渋沢らが作成した「負債償却財源調」によると、鉄道院に売却した土地代のほかに、財源としては借入金や寄贈金、本学維持講会、そして渋沢をはじめとする諸氏の援助に負うところが少なくなかったことがわかる。また、この翌日に渋沢は、内務大臣の原敬のもとを訪ね、國學院補助費支給を懇請し理解を得ている。

 このように、明治末期にあって渋沢栄一の尽力無くして、本所・本学の維持・発展はなかったものと思われる。渋沢は生涯に亘り、多くの企業、公共事業、教育機関に携わったが、本学もその一つであることを、我々は承知しておかなければならない。学報連載コラム「学問の道」(第38回)

田島信夫宛渋沢栄一書翰(当時の國學院大學出版部が刊行した書籍を勧めている)【校史・学術資産研究センター所蔵】

 

 

 

渡邉 卓

研究分野

日本上代文学・国学

論文

「國學院と校地「渋谷」―大学の歴史と文教地区の形成―」(2017/02/28)

「武田祐吉の学問態度と〈万葉精神〉」(2016/02/29)

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