近くて遠い? 遠くて近い? そんな親の気持ちや大学生の子どもの気持ちを考えます。
前回の「殻をつつく「啐(そつ)」の音を聞いてますか?」の記事について、貴重なご感想をいただきました。
「子どもからは、おせっかいと言われても、『啐啄(そったく)』を忘れない親鳥であるべきという趣旨は理解できます。だが、今は個性尊重の時代。社会的には困難なのでは?」
個性尊重(重視)の子育てについては、誰も異議を挟まないでしょう。しかし、この言葉の真の意味はあまり吟味されておらず、その結果、社会的混乱さえ起こしているように思われます。
小学2年生の担任の先生の話。毎日のように遅刻する子どもの親に電話で注意をしたそうです。しかし、親は、先生に怒鳴り返しました。「遅刻するのは、子どもの個性の問題。放っておいてくれ」。でも、笑えません。
某大手新聞の論説にも、「今個性の時代なのに、いまだ遅刻点検」という記事が掲載されています。
他(者)との違いを「個性」と見る個性観が、そこにはあります。日本では、「個性」と言えば、「他(者)との違い」という側面が、強調されています。
しかし、国際的には、個性とは他との相違の問題でなく、実は主体性の問題なのです。つまり個性とは、他者の誰とも替えることのできない自分の「よさ(絶対的価値)」に向かって一生懸命頑張ること、なのです。連帯の中で輝く、あるべき自分の「よさ(持ち味)」に向かって、一生懸命頑張った結果としての個性尊重なのです。
客員教授として米国インディアナ大に在任中、教育学部長に指摘されました。
「日本人が言っている『個性』とは、単に表面的、表層的な見た目の違いのこと。しかし、個性とは本来、自尊感情のこと。これは、『トライ(やってみる)、チャレンジ、ガッツ(根性)』の言葉に代表される。米国では、子どもの社会から、これらの言葉が消えようとしている。だから、『個性づくり』が、全米の中学校でスローガンにされている」と。
確かに、主体的に一生懸命頑張った結果としての違いを保障しよう。これが個性尊重の子育てです。
自分の「よさ」は、かつてのように「品行方正・学業優秀」タイプだけに限定されません。そこは、多様性(ダイバーシティ)なのです。個性尊重の社会とは、個性的に活動した結果の多様性(違い)が保障される社会のことです。
先日、優勝が決まった東都大学野球1部リーグ最終戦で、一人一人が個性的に輝きながら躍動する本学硬式野球部員の姿を見せてもらいました。神宮球場に飛び交う個性蛍たち。「個性蛍よ、飛んでいけ!」心で叫び続けました。学報連載コラム「おやごころ このおもい(第7回)」
新富 康央(しんとみ やすひさ) 國學院大學名誉教授 専門:教育社会学・人間発達学 |