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歴史すらも原料と伝えたくなる
“ビール王”が作ったヱビスビール

“ビール王”と呼ばれた男が作ったヱビスビールと恵比寿の活気。伝統×挑戦の灯は消えない Part 1

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サッポロビール株式会社 沖井 尊子さん

2021年4月3日更新

 ヱビスビール ――。

 昨年、令和2(2020)年に誕生から130年を迎えた、国内ビールメーカーのトップランナーの一つであるサッポロビール株式会社の主力商品の一つである。

 ヱビスビールと渋谷の関係は深い。若い世代は信じられないかもしれないが、現在、恵比寿ガーデンプレイスがある場所に、かつてはヱビスビールの工場が存在していた。JR恵比寿駅の前身は、そのビールを出荷するための“専用の貨物駅(恵比寿停車場)”として開設された背景を持つ。

 ヱビスビールとともに歩んだ町は、いつしか「恵比寿」と呼ばれるようになり、その盛り上がりとともに、活気を灯すようになっていく。

 いま、世の中は新型コロナウイルス流行により、さまざまなものが停滞している。時短営業などに起因する飲食店向け販売の落ち込みもあり、ビール大手も苦戦をしいられている。だが、ヱビスブランドを担当するサッポロビール株式会社マーケティング本部ビール&RTD事業部・沖井尊子さんは、「飲食店様も大変な状況ではありますが、ビールの美味しさが再評価される機会につなげたい」と落ち込む様子はない。

 130年の歴史を持つヱビスビールだからこそ、「新しい生活様式の中で楽しさや幸せを提供できる」。ヱビスの今昔を振り返りながら、ビールとはどのような喜びを与える存在なのか、話を伺った。

 

◆ ◆ ◆

 

 明治20(1887)年、サッポロビールの前身である「日本麦酒醸造会社」は設立された。その2年後、目黒村三田(現在の東京都目黒区三田)に、レンガ造り3階建てのモダンな醸造場を完成させ、明治23(1890)年にヱビスビールを発売するにいたる。当時、渋谷は渋谷駅こそ開業していたが、南豊島郡に属する“村”。今でこそ渋谷も恵比寿も洗練された街だが、当時は原野が広がる未開拓の地であった。

 そんな地に、なぜヱビスビールは工場を構えようと考えたのか……? 気になる人は少なくないだろう。「この場所に工場があったなんて、今の恵比寿しか知らない方は想像できないですよね」、そう笑いながら沖井さんは教えてくれる。

 「工場で製造したビールを保管するための貯酒庫が必要だったため、十分な地下空間のある高台であることが望ましかったこと。そして、ビール造りに欠かせない水が必要でした。三田用水から水を引くことができる恵比寿は、理想的な立地だったようです」(沖井さん、以下同)

 三田用水は、玉川上水から分水された江戸の六上水の一つ。現在の東京都世田谷区北沢から目黒区三田方面を経て、白金猿町に流れていた用水路だ。加えて、この地が白金台地へと向かう高台に位置していたことが、工場設立の決め手となったという。バイエルン地方は、アルプスとドナウ川に挟まれているため、今日の華やかなりしビール文化がある。アメリカ屈指のビール生産の中心地であるミルウォーキーは、「水が近くに集まるところ」という先住民の言葉から地名が付けられているように、五大湖に隣接する水上交易の要所だ。東京の中にあって、水と台地、そして輸送を考慮したとき、渋谷の隣に位置するこの場所にビール工場を構えたのは、慧眼というほかない。

 

ヱビスビールの天才的ブランディング

 明治25(1892)年、馬越恭平が事実上の社長に就くと、ヱビスビールは、そのプレゼンスを高めていく。

 「当時の資料を調べてみると、 日本麦酒醸造会社が作るヱビスビールを日本一の製造量にする計画を掲げていたことが分かります」

 当時、ジャパン・ブルワリー(のちのキリンビール株式会社)が大衆向けにビールを醸造・販売するなど日本でもビールが浸透しつつあった。いわば、ヱビスビールは新規参入。「今で言うところのベンチャー企業のような存在だったと思うのですが、日本一になるという目標を掲げて事業を進めています。ヱビスビールはそういったブランド精神がある」というように、トップである馬越自ら積極的にPRを展開していく様子が、記録として残っている。

 「馬越はお正月に初荷(=初出荷)というイベントを始めるのですが、馬越を含め社員が半纏を着て、新年にできたばかりのヱビスビールをアピールしながら、工場周辺を練り歩いていました。当時、周辺に暮らす皆さんの中には、『これを見ないとお正月ではない』といった記録も残されているほどで、恵比寿周辺の皆さんにとって欠かせない風物詩になっていたようです」

 サッポロビールの社員は、今現在も恵比寿の祭りやイベントを通じて、地域住民たちと交流を重ねているが、その原点は100年以上もさかのぼることになる。モノが街に活気を与えていく――。この街が「恵比寿」と呼ばれるようになったのは必然だったのかもしれない。昭和3(1928)年には、伊達跡などが「恵比寿通り1・2丁目」に改称され、名実ともにこの街は恵比寿と呼ばれるようになっていく。


馬越をはじめ社員が初荷の際に着ていたという半纏(画像提供:サッポロビール株式会社)

 

 日清戦争の好景気を受け、ヱビスビールの売れ行きは増加する。現在、恵比寿ガーデンプレイスのある土地を用地買収し、工場を拡大。明治29(1896)年には日本麦酒は業界トップに躍り出る。 だが、馬越の仕掛けは、これだけでは終わらなかった。

 「新橋際(現銀座8丁目)に、日本初のビヤホールの『恵比寿ビヤホール』を開設します。おいしい空間でビールを飲んでいただきたいという提案をするとともに、宣伝戦略の一つとして開業したと聞きます。世の中に話題を提供していたブランドだったんだなと、私も驚くばかりです(笑)」

 馬越は、天才的な経営者であると同時に、天才的プランナーだった。売上げは伸び続け、明治34(1901)年にヱビスビールを各地へと出荷するための貨物専用駅「恵比寿停車場」を開業。

 他社の追随により製造量が落ち込むも、その5年後には、日本麦酒醸造会社と、大阪麦酒(アサヒビールの前身)、札幌麦酒(サッポロビールの前身)を合併し、大日本麦酒株式会社を誕生させてしまう。合併時の市場占有率は約7割とも言われる。創業当時の「日本一の製造量にする」という計画を実現してしまったのだ。

 人は彼を、「ビール王」と呼ぶようになる。


ヱビスビール記念館の前に建つ馬越恭平像(画像提供:サッポロビール株式会社)

 

文士すらも魅了したヱビスビール 

 ビール王が作ったヱビスビール。

 「夏目漱石の小説「二百十日」(『鶉籠』(春陽堂、明治40(1907)年)所収)の中で「ビールは御座りませんばってん、恵比寿なら御座ります」という記述があるんですね。昔からヱビスはちょっと特別な存在だったのかなって。当時からドイツにこだわっていたので、味わいも本格的です。当時から、他とは一味違った唯一無二の味で、その味に魅了された明治の人がいるんだろうな……なんていろいろと想像してしまいます」

 ビールアドバイザーであり、日本ソムリエ協会認定のソムリエでもある沖井さんは、そう朗笑する。なんでも、内田百閒も『御馳走帖』(榜葛剌屋書房、昭和21(1946)年))の一説で「夕食の膳では酒を飲む。(中略)麦酒は恵比寿麦酒」と書き、実生活でもヱビスをこよなく愛したそうだ。一方、漱石は『文士と酒、煙草』の中で、酒が得意ではなく、下戸のくちだと明かしている。飲めない漱石をも意識させるヱビスビール。味だけではなく、ひときわ“存在も立っていた”ことが想像できるだろう。

 昭和18(1943)年、戦禍のあおりを受けビールは配給制になる。名称が「麦酒」に統一されたことで、ヱビスビールは一旦、あくまで一旦消滅するはずだった。しかし、戦後の昭和24(1949)年、財閥解体を実施する過度経済力集中排除法の適用を受け、大日本麦酒株 式会社は、朝日麦酒(現・アサヒグループホールディングス)と日本麦酒(現・サッポロホールディングス)に分割される――。


 ビールメーカーの革命児だったヱビスビールは、 歴史の表舞台から姿を消した。だが、空白の時代を経て、ビール王が手掛けたヱビスビールはカムバックする。昭和46(1971)年、“サッポロの特製ヱビスビール”として生まれ変わったのだ。

 「平成6(1994)年には、『ヱビスビールあります』というキャッチコピーで大きく飛躍しました。特に、飲食店さんを中心に新鮮に映り、売上げが飛躍的に伸長します。ヱビスブランドの中でも歴史的な出来事でした」

ヱビスビールは、単なるアルコール飲料とは一線を画す、とてつもない歴史が熟成されている。原料に、麦芽およびホップ、歴史あるいは伝統――そう表記していてもいいくらいに。

その歴史は今も連綿と続いている。次回は、“中の人”がどのような思いでヱビスビールと向き合っているのか。話を聞いていく。

 

サッポロビール株式会社

YEBISUビールブランドサイト

 

取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(原生林) 企画制作:國學院大學

 

 

 

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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