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皇典講究所初代所長・山田顕義伯と漢詩【学問の道】

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文学部 教授(特別専任) 赤井 益久

2020年11月27日更新

 上の漢詩は、後に皇典講究所初代所長となる山田顕義が友人思甫こと品川弥三郎に宛てた七言絶句である。詩題には「中秋の後三夜、月色清朗にして、列営寂寥たり。偶々品川思甫を懐ふ」とある。慶應3(1867)年8月18日、中秋の名月の3日後。維新直前の緊迫した時代背景の中で、詩は皎々と冴える月を詠じ、秋の気配に浸りながら、遠く離れている友人に思いを致している。詩は、唐の白居易の作品を意識しながら、優れた出来となっている。

 江戸時代に至るまで、わが国において学問と言えば「漢学」を意味していた。「国学」は、漢学を批判原理として自らの学問を析出し闡明(せんめい)していったのである。その理解が深くなければ、自らを考察し究明することはできない。「漢学」の歴史は永く、分厚い蓄積があった。明治15(1882)年8月、皇典講究所が設立され、その教育課程を編成した際にも、修身には『古事記』『日本紀』と並び『論語』『大学』が、歴史には『続日本紀』『三代実録』と並び『史記』『漢書』が、文章には『万葉集』『徒然草』と並び『文章規範』『韓愈文』などが正と副として配置されていた。漢詩・漢文は、日本古典と共に学問の双璧でもあった。

皇典講究所初代所長・山田顕義

 山田の人となりは、用兵には異才有りと評され、また司法大臣の経歴から軍事・法制面での活躍が目立ち一見武骨な印象を与えるが、実はそうではない。松下村塾の師吉田松陰や同門高杉晋作らと共に漢詩創作は、その心情を理解する上で欠くことのできない貴重な資料である。山田の祖父市郎右衛門は漢学者であり、「幼より和漢の書を好み」と記されるように、その血脈の根底に漢学は息づいていた。漢詩を松下村塾助講の富永有隣に、書を藩校明倫館の講師長三洲を師として学んだ。 漢詩は広く長い間、東アジアにおける士大夫階層の共通の教養として普及していた。江戸期から幕末・明治維新期に於ける教養人の叙情の発露として、個人の表現手段としても歌道に遜色のない立場を保持していた。

漢詩に添えられた「空斎」の号

 山田顕義、幼名顕孝、号を空斎、不抜、韓峯山人と称するのも漢学者の伝統である。今に残る350首の漢詩は、山田の生涯を見る上で欠くことはできない。学報連載コラム「学問の道」(第30回)

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