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足利義満によって確定された吉田家の拠点

足利義満寄進状(吉田家文書)

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本学兼任講師・研究開発推進機構PD研究員 比企 貴之

2020年11月26日更新

 

※無断転載を禁じます

 室町幕府の3代将軍・足利義満が、吉田神社の社務である卜部吉田家に対し、その社域の画定と安堵をおこなった文書である。

 吉田神社や神楽岡が所在する吉田の地一帯(京都市左京区神楽岡〈吉田山〉周辺)は、鎌倉前期以来、公家の居宅や「吉田泉殿」といった別荘が造営される住宅街の様相を呈していた。しかし、これらは南北朝の動乱期を通じて遺棄され、やがて廃れてしまう。

 一方、吉田神社の社務であった卜部冷泉家は、このころ居を室町の地に構えていた。ところが、南北朝最末期の永和4(1378)年に足利義満が室町第(花の御所)に移ることとなり、それにともなって卜部冷泉家は神社の近辺へと移り住み、ほどなく家名も「吉田」へと改めることとなった。卜部吉田家の誕生である。

 本文書は、こうした吉田家の一連の動きのなかで発給された、寄進状の体裁による安堵の文書である。卜部吉田家の政治上、また神祇政策の活動上の拠点が定まったことを象徴する文書といえよう。学報連載コラム「未来へつなぐ学術資産研究ノート」(第15回)

 

 

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