現代社会を「より善(よ)く生きる」ためのヒントを探る特集「大学生と道徳」。後編では、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い社会問題化した「自粛警察」「不謹慎狩り」といった攻撃的な過剰行為が生まれる背景や、その解消に有効な道徳的観念について、人間開発学部初等教育学科の田沼茂紀教授(道徳教育学)に、再び語っていただきました。
自己省察を大切に
人はなぜ、他人を攻撃するのでしょう-。その答えを示してくれる本があります。ノーベル賞受賞者であるオーストリアの動物行動学者、コンラート・ローレンツ(1903~89年)が記した『攻撃 悪の自然誌』(日高敏隆・久保和彦訳、みすず書房、1970年)です。
ローレンツは、本能的な動物の行動は種(しゅ)の維持ではなく、自分自身が遺伝子として生き残るためのものだった-と主張し、ノーベル医学・生理学賞(73年)も共同受賞しました。著書では、多くの動物は同種の仲間を攻撃する習性を備え、人間も同様に自然な衝動として他人を攻撃する生理的なメカニズムを持つ-と述べています。
現代社会では、この攻撃性を制御することが求められます。ところが、コロナ禍など想定外の異常事態下では、ふだんは封印されている人間の本来的な攻撃性が刺激され、露呈しやすくなるのです。コロナウイルス感染者や治療にあたる医療従事者らに対する言われなき差別や中傷をはじめ、飲食店などに休業を要求する張り紙をしたり、マスク着用を強要したりする過激な行為が顕在化しました。

緊急事態宣言下の渋谷
人は平時であれば、自分と違うものを持つ人や何らかの制約を抱えていたりする人に対しては理性が働き、バッシングなどの攻撃行動に出ることはありません。むしろ、多くのケースでは愛他行動となるのが常です。ところが、ウイルスという目に見えない脅威を前にすると、本能的な攻撃性から冷静さを見失う人が増えてしまいました。こうした事態を回避する一助となるのが、道徳性です。
『論語』の中で、孔子の門人だった曽子が言っています。
「吾(われ)日に吾(わ)が身を三省(さんせい)す」(前編も参照)
人は自己省察を重ねることにより、他者と共により善く生きることが可能になる-という教えです。異常事態下では、個々が何らかの形で冷静さや平常心を取り戻すことが求められます。このときに役立つのが、自己制御を可能にする個の道徳性です。
共通する「建学の精神」
コロナ禍にとどまらず、不安定な社会状況で人が理性的なコントロールを損ねた事態の一例として、米国で今年、再燃した人種差別問題が挙げられます。渦中に開催されたテニスの全米オープンでは、黒人をルーツに持つ大坂なおみ選手が人種差別に目を向けてもらおうと、警察官による暴行などで命を落とした7人の黒人被害者の名前が記された黒いマスクをつけ、7試合を勝ち抜いて優勝を果たしました。

全米を始め世界的にも大きな潮流となったBlack Lives Matter
スポーツの神聖さや純粋さの立場から、選手が競技場で競技とは無関係の発信をすることに対しては批判的な意見もありますが、この記事は大坂選手の行動の是非を問うことが趣旨ではありません。あくまでも道徳性の視点でとらえてみると、大坂選手の行動は平常心を逸した社会に覚醒を促すという大きな役割を果たしました。つまり、大坂選手の行動は広い意味で道徳教育であったと考えられるのです。
人が自ら善く生きようと問うこと、自ら内省しながら覚醒しようとする意志力を励ますこと、人格的な道徳的資質・能力形成を手助けすること-。ここに、人格の完成を究極の目標に掲げる道徳教育の存在理由があります。これは、國學院大學が標榜する神道精神「日本人としての主体性を保持した寛容性と謙虚さ」の体現とも共通するものです。
道徳教育には即効的機能はありません。しかし、人には叡(えい)智(Wisdom)が備わっています。これから続く未来社会で不安のるつぼの中に置かれる状況に幾度となく遭遇したとしても、きっと皆さんは自らの叡智をもって乗り越えていけるはずです。