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道徳は「より善く生きる」ための旅

大学生と道徳〈前編〉

  • 人間開発学部
  • 初等教育学科
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人間開発学部 教授 田沼 茂紀

2020年11月20日更新

 新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、社会の〝分断〟を生むような風潮が顕在化する今、人が「より善(よ)く生きる」ためには、何が求められるのか-。コロナ禍の中、国内では公的な休業や外出自粛の求めに従っていないとして、他者を糾弾し自粛を強いるような過剰な行為が社会問題化しました。海外に目を向けると、米国の根深い人種差別問題がクローズアップされています。人間教育学部初等教育学科の田沼茂紀教授(道徳教育学)に、そのヒントを語っていただきました。

田沼教授が編集委員を務める光村図書出版の小中学校の道徳の教科書

人の最大関心事は?

 自分らしく生きることは、人にとって最大の関心事です。その自分の生き方や在り方を考えるのが「道徳」であり、生き方や在り方を考えるきっかけを与えるのが道徳教育です。
 道徳教育学と類似した学問に倫理学があります。両者の学問的な違いは、倫理が理法として社会の行動規範や規則の正しさを求めるのに対し、道徳は人としての生き方や在り方の善さを実践できるよう追求するところです。

みな自分らしく善く生きようと志向する

 道徳性というと、「建て前ばかりで、肝心なところで役に立たない木偶(でく)の坊」とか、「人の生き方を無理やり型にはめ、都合よく操るような危ない考え」といった負のイメージでとらえられることも少なくありません。中には、道徳教育の前身である戦前の修身科による「忠君愛国思想」が国民を戦禍に巻き込んだ-と言う人もいます。
しかし、こうした考え方は道徳性に対する無知や誤解から生じた思い込みであることが大半です。なぜなら、古代ギリシャの哲学者、ソクラテスの時代から、「善く生きる」ことが、人間にとって最大かつ永遠の命題だからです。

 ソクラテスは、神を冒涜(ぼうとく)したという訴えで市民裁判により有罪判決を受け、「悪法も法なり」と言って毒杯をあおいだとされます。死を前にしたソクラテスと親友、クリトンの語り合いを弟子のプラトンがまとめた対話集『クリトン』の一節には、ソクラテスの名言が残されています。

 「善く生きることと、美しく生きることと、正しく生きることは同じだ」

 人が自分らしく善く生きようと志向するのは天賦の徳性であり、古今東西を問わず誰もが希求する理想です。その「より善い生き方」を命題として人格陶冶(とうや)を担うのが、道徳教育の役割といえます。

他者と共有し合える価値観を

 道徳性は、他者から押し付けられて身につくものではなく、あくまでも個人の内面的な人としての生き方の善さを追い求める精神的作用です。論語の中に「吾(われ)日に吾(わ)が身を三省(さんせい)す」との一節があります。道徳科の授業はこの一節のように、個人が自らの生き方を主体的に自問し、自己省察する機会を設けてあげることが役目です。そして、最高学府である大学教育の役割は、自己を省みることによって「他人と共により善く生きる」ことのできる人格的特性を育むことです。

 倫理学者の和辻哲郎先生は、人間の社会的立ち位置を「間柄的存在」と表現しています。間柄的存在とは、人は他者との関係性によって存在するという意味です。道徳教育が目指す「他人と共により善く生きる」ための人格形成に大きく関わる言葉です。

 大切なことは、互いに共有し合える価値観、つまり、多くの人が納得できる「共通解」を見出していくことです。この共通解を前提に、自分はそれをどのように納得して受け入れるか、実際にどう行動に移すのかという「納得解」が不可欠です。道徳教育の大きな意義は、このように他者と共有し合える価値観を基に、自分なりの価値観を創造していくところにあります。

 学生の皆さんは教職課程以外で道徳教育を学ぶ機会は少ないかもしれません。社会人になれば,その機会はさらに減るでしょう。しかし、道徳は自分自身と対峙(たいじ)する人生そのものです。生きること、すなわち道徳であり、生涯続く「自分探しの旅」といえます。皆さんが「より善く生きる」ことのできる力を育めるよう願っています。

田沼 茂紀

研究分野

道徳教育学・教育カリキュラム論

論文

道徳学習における「問い」の考察ーグループ・モデレーションの視点からー(2020/03/31)

自らの生き方を問い直す課題探求型道徳科授業とパッケージ型ユニット(2019/07/14)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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