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時代に応じて読み、書き継がれた古典

ゼロから学んでおきたい『日本書紀』 文学から読み解く《下》

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研究開発推進機構 准教授 渡邉 卓

2020年10月21日更新

 『日本書紀』は学際的に読むべきであると説く國學院大學研究開発推進機構の渡邉卓准教授。「第一の古典」として1300年にわたって受け継がれた『日本書紀』は、宮廷人から国文学者まで時代に応じて読み継がれたことも特徴の一つだとしています。また、「一書(あるふみ)」という独特のスタイルが日本文化に大きな影響を与えたことも指摘します。一方で、難解がゆえに敬遠されたことも踏まえ、「身近なところから読むのも、平易な現代語訳で読むのもOK」と推奨します。「ゼロから学んでおきたい 日本書紀 文学から読み解く《下》」として、中世以降はどのように読まれてきたかという点と、明治以降に近代人文学の研究拠点として活動してきた國學院大學が関わった「編纂1200年」の記念事業について伺いました。

――平安時代以降の『日本書紀』の扱いや伝わり方は

渡邉 中世は「戦の時代」で人々が神仏を必要とし、『日本書紀』の読まれ方も『日本書紀』巻第一・二の「神代巻」が中心となります。神という存在を身近にしようという時代にあって、神祇官を務めた卜部氏では、『日本書紀』を第一とし、『古事記』『先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)』を次とする「三部の本書」という概念が生まれます。この概念から、卜部氏から興った卜部神道(吉田神道)では、これら三つの書物を根本経典として位置づけるようになります。なかでも『日本書紀』を「神書」として扱いました。このときに、多くの人に書写されたので、現存する写本の多くが卜部氏に関わるものです。

 卜部氏に関わる写本は、それまでの『日本書紀』の写本を変化させました。古い写本は、『日本書紀』神代巻にある「一書曰(あるふみにいわく)」ではじまる別伝の記述を割注形式で書いていました。しかし、卜部氏は「一書曰」を本文と同じ大きさにして段下げに変更したのです。当初は見やすさのために書き改めたのですが、卜部神道の言説と相まって、「一書曰」の別伝を神の言葉として認識することで、本文と優劣がないとしたのでした。卜部氏に関わる写本は、後の版本にも影響を与えます。卜部氏以前の古い形式を留めた写本の方が現存数は少なく、國學院大學が所蔵する嘉禎(かてい)本『日本書紀』などは、そのうちの一本です。

「一書ニ曰ク」と別伝は始まる(渡邉准教授私蔵本より)

――神書とされた『日本書紀』のその後は

渡邉 慶長4(1599)年、『日本書紀』の神代巻が後陽成天皇の勅命で「慶長勅版本」として刊行されるという重大な動きがあります。このとき、『日本書紀』の政治に必要と考えられた重要な書物が刊行されました。勅版であったため、刊行数も少なく貴重な版本です。この「慶長勅版本」の『日本書紀』の校訂作業にあたったのも卜部吉田家の人物でした。また巻末には、跋文(ばつぶん)が付されましたが、その内容は卜部神道の説に基づいています。近世への入り口の『日本書紀』も中世の影響を受けているといえます。

 「慶長勅版本」の権威は巻末の跋文まで含め、続く版本に影響を与えます。近世は様々な新しい版本が刊行されました。こういった出版の恩恵を受け、『日本書紀』の研究を行ったのが国学者です。まず登場する契沖(けいちゅう、1640~1701)は『万葉集』を研究する中で仮名遣いの検討から『日本書紀』歌謡も調べます。次いで伏見稲荷(現、伏見稲荷大社)の神主の家柄から荷田春満(かだの・あずままろ、1669~1736)が出て、神道と歌学から古典の研究を深め、賀茂真淵(1697~1769)、本居宣長(1730~1801)とつながっていきます。近代になると、本学のルーツである皇典講究所のカリキュラムにも『日本書紀』の科目が入り、本学で学び、後に教壇に立った国文学者の折口信夫(1887~1953)や武田祐吉(1886~1958)も『日本書紀』を研究しています。

 このように、平安時代までは朝廷を中心に、中世には神道家、近世は国学者、それ以降は学問が細分化され国文学者や歴史学者が『日本書紀』研究に携わってきました。このように、『日本書紀』は時代に応じて読まれ続けてきました。しかし、読者層が変わっても読む必要があり、書き写す必要があったことは変わりありません。

――編纂1300年を迎えたが、今後はどのように向き合うか

渡邉 『日本書紀』を手に取る人が少なくなったのは、第一の古典が『古事記』に取って代わってしまったことに加え、やはり大部で内容も難解だということが理由といえるでしょう。複数の伝承が混在する、漢文体で書かれている、全30巻である-など手に取るには少し勇気がいります。

 解決策として切り口を変えて読むことも必要です。『日本書紀』は歴史書とされますが、私は上代文学として読みます。神道書として読む人も、巻3以降は天皇の時代だから政治書だという人もおり、多面的に捉えられる文献です。もう一つ思うのは、『日本書紀』に由来する地名が各地に残されているので、身近な場面から読めばいいのです。平易な現代語訳も出ているので、それを読むのも手ですね。

――もう少し理解してもらう仕掛けも必要か

渡邉 國學院大學博物館で秋に予定していた『日本書紀』展は来年度に延期しました。本学では100年前の編纂1200年の時も展覧会を開いています。学校の歴史としても『日本書紀』展を位置付けて実現させたいと思っています。

『日本書紀』編纂1200年(大正9年)に行われた展覧会の目録(渡邉准教授私蔵)

 100年前は東京帝国大学(現東京大学)で講演を行い、当時飯田橋に校舎があった本学で展示を行いました。当時そろえられる貴重な資料を集めての展覧会だったようです。その様子が残された図録がありますが、展示された資料には戦時下に海外に移ってしまった物や、今は所蔵先がわからなくなっている物もあります。それらの資料のことが図録に残されていることは非常に貴重です。図録より珍しいのは本学での展覧会場で配られた目録です。図録と目録で出品数が違いますが、展示する予定だったものが変更になったのかもしれません。

 企画段階ではコロナ禍など誰も想像しませんでした。『日本書紀』にも疫病が流行する話が出てきます。崇神天皇の条で、疫病が流行し、それが神宮の祭祀にまでつながっていることが出てきます。これに限りませんが、古と今とをつなげるを展示でできればと思ったりもしています。

 

 

渡邉 卓

研究分野

日本上代文学・国学

論文

「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)

「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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