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いつの時代も「好き」に正直な人が社会を変える。文学部学部長が語る

いまの世の中は、個人的な好き嫌いを馬鹿にしすぎている

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國學院大學 文学部学部長 石川則夫

2017年5月1日更新

ほかの分野と比べて、文学は「社会では役に立たない」と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。世界の至るところで、実学だけでは解決できない多種多様な問題が生じています。そんな社会において、文学はどういった役割を担っているのでしょう。

創立から約130年にわたり「日本を学ぶこと」を主題に掲げ、多くの学者・研究者を輩出してきた國學院大學が考える、「文学部」の社会的意義とは? 20年以上、國學院大學文学部に勤務されている石川則夫学部長にお聞きします。

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ITの発達にともなって人の見方が単純化され、現代の若者の欲望は平均化してしまった

―大学は社会に出る直前の若者たちが集まる場所だからこそ、時代の変化が顕著に見られると思います。近年、何か変化を感じられることはありますか?

石川則夫学部長(以下、石川):いまの若者は欲望が共通になってきていると思います。言い換えれば、変わった人間が減ってきているということですね。昔と比べて、自分の好みや主張、欲求を出すことが抑えられていると感じます。

―それは、情報の取得の仕方が変わったからというのもあるのでしょうか。

石川:いまや中学生もスマートフォンを使うようになり、あらゆる情報を手軽に得られるようになりましたよね。その結果、東京で育っても青森で育っても、知っているものや知らないものにそれほど違いが表れなくなりました。そのせいか、いまの学生は自分が何が好きなのか、将来どうなりたいのかというところがなかなか見えてこないですね。

―それは若者の問題でしょうか。それとも、彼らを導く大人や社会の問題でしょうか。

石川:大人や社会の問題が大きいでしょうね。たとえば数十年前には「落ちこぼれ」が問題になり、少し前は「引きこもり」が問題になっていました。しかし、もっと昔はそういったことも許容されていたのですよ。学校に来ない子も、家にこもって漫画を読んでいるのなら、それがその子の個性だとして認められていました。じつは私も、小学生のときは登校拒否気味でしたし(笑)。現代では、社会のほうがある単一の規格を決めてしまっていて、そこから逸脱してはいけない、と人の見方を単純化してしまっているように思いますね。

―なるほど。いまの社会はある種、抑圧的であるということですね。

石川:グローバル化があるところまで行き着いてしまったことが、原因だと思います。グローバル化の一つとして、人々が外国へ行き、仕事をして、そこで何かを生み出す時代になったということが挙げられます。つまり、経済的な領域が拡大しているということです。

それにともなって、アメリカやヨーロッパでのテロの問題などが出てきた。これはある意味では、文化的な衝突です。近代的な政治信条や思想といったものよりももっと根深い、感情的なもの同士の衝突が起きているわけです。近代は理性や知性を重視するあまり、この感情の問題を蔑ろにしてきました。いままさに、この感情の問題を捉えることが重要になってきていると感じます。

―近代は、人間の根本の部分にある感情を覆い隠してしてきたということでしょうか。

石川:近代というのは、知性や理性を水準としてあらゆるものごとを決めようとしてきた時代でした。だから近代の世界では、「話せばわかる」と、冷静に議論さえすれば和解できると信じられてきたのです。ですが、そこでは人間が生きていくうえでの「質」が置き去りにされていました。それは人間の背負ってきた歴史や、趣味嗜好といったものです。そうしたものを置き去りにしてきた結果、溜めこまれてきた感情がいま、世界で次々と噴出しているのではないかと思います。

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明るみに出すことがよしとされた近代。しかし、人間は心の奥で暗い話を欲している

―趣味嗜好を置き去りにするという話は、先ほどの引きこもりの話とも関係がありそうですね。そうした現状の社会や世界に対して、文学はどのように関わることができるのでしょうか?

石川:私は高校に呼ばれて授業をすることがあるのですが、そこでよく怪談や都市伝説をとりあげます。「学校の怪談」というマンガや映像作品がありますよね。あれはもともと、ある中学校の国語の先生がまとめた研究書だったのです。民俗学の研究の一環として、生徒たちの間で噂になっている都市伝説を集めたのですね。

その先生は集めた噂を分析してみて、江戸時代に流行した怪談話とそっくりであることに気づき、疑問を抱いた。どうして現代の子どもたちは、江戸時代の怪談を教わったわけでもないのに、同じような話を学校でしているのかと。

―それは不思議ですね。

石川:そうですよね。私は、「人間は暗い話や怖い話をいつも求めているから」というのが理由だと思うのです。近代というのは、先ほどの「話せばわかる」のように、なんでも明るみに出していき、見えないものを見えるようにしていく作業をしていたわけですが、どうも人間はそれだけでは生きていけないようですね。どこかで暗い、得体の知れない、説明のつかない何かを、人間は心の奥で欲しているのではないでしょうか。

その気持ちをすくい上げるのが文学の役割ですよね。文学が描くのは、ふだんは見えない人間の暗部です。それを表現しようとすると、必然的に小説や詩という形態をとることになる。ですからおそらく、現代の感情の問題を捉えることができるのも、文学ではないかと思うのです。

―人間はそもそも、明るい部分だけでは満足できないと。そこで文学が、暗い部分を表現する役割を持つということですね。

石川:はい。怪談がよく発生するのはどこだと思いますか? 意外に思われるかもしれませんが、新興住宅地なのです。新興住宅地は、いままで丘や山だったところの木を切り倒したり、畑を潰したりしてできあがります。そんなふうに新しくまっさらな場所では、人間はなかなか落ち着けないのではないでしょうか。だから、じつは都市伝説というのは、都市の中心ではなくて都市近郊で発生するのです(笑)。やはり、人間はどうしても暗い話を欲してしまうのでしょうね。

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一人でもいられる人間になってほしい。自分だけの言葉を発見するのが文学の役目

―人の暗部を引き受けるという文学の役割は重要だと思います。一方で近年、大学は実学主義的になってきているとメディアで取り沙汰されています。われわれが生きていくうえで必要なのはたしかに実学ですが、文学は社会ではどのような意味を持つと思いますか?

石川:企業の方に「どのような学生が必要ですか」と聞くと、だいたい同じことを言われます。一つは、コミュニケーション能力のある人。といっても、英語やフランス語ができるということではなく、「普通に話ができる人」という意味です。

そしてもう一つは、「違う視点に立てる人」だそうです。いま進行しているプロジェクトを違う視点から眺めることができる。そういう学生が必要だと言うのですね。ではそれを養うためにどうすればいいかというと、私は文学を読むことだと思うのです。

―他者に対する想像力を働かせたり、自分にはない価値観を吸収したりするのは、たしかに文学に触れていないとできないかもしれませんね。

石川:はい。それに、「言葉」について考えるためにも文学は大事だと思います。コミュニケーションというのは、自分が考えていることを言語表現して、相手がそれを解釈して考えたことを言語表現し、それをまた自分が読み取って考えて、ということの繰り返しですよね。単純な言葉のキャッチボールではないのです。

相手が発した言葉によって自分が感化されたり反発したり、感情移入したりすることもあれば、自分が発した言葉によって自分が考えさせられることもあります。言葉は一方通行ではなく、双方向的なものなのです。

―「自分が発した言葉によって自分が考えさせられる」とは、どういうことでしょうか?

石川:自分の心の動きというのは、いつも事後的にしかわからないものです。文学部の生徒は、夏目漱石や芥川龍之介、太宰治について調べて論文を書くわけですが、書いている最中は自分がなぜこの言葉を使ったのか、なぜこのような表現をしたのかわからないのですね。ところが、学生同士でディスカッションをすることで、はじめて自分が何を考えていたのか、何を言おうとしていたのかがわかる。自分の言葉を発見する。そこが大事なところです。

私はいつも新入生に「一人でいられる人間になろう」と言っているのですが、それには自らの意思や考えで自分を律すること、周りに流されないことが不可欠です。要するに文学を学んで何を達成するかというと、「自分自身を見つける」ということなのですね。言い換えれば、自分の言葉を発見するということです。そのような卒業生を輩出したいと本学部では考えています。

―なるほど。自分の言葉を発見できれば、自分について知ることもできる。

石川:われわれは言葉にすることではじめて何かを認識して、価値や意味を見出すことができる。では言葉はどこで勉強すればいいのか。孔子という思想家は、詩の効用について説き、詩を学ばねば話をすることはできないと教えています。

―はるか昔から、文学がコミュニケーションにとって重要であるということが指摘されていたということですね。

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目の前にある文章を「ただ読む」。一生懸命に読めば、現代を反映したものになる

―國學院大學は日本の文化を大切にする大学という印象がありますが、國學院大学の文学部ならではの特徴はありますか?

石川:國學院大学はもともと古典の研究所から始まった機関ですから、日本の伝統の維持を目標としていることが特徴です。昔から國學院における文学部の研究は、「訓詁注釈」(くんこちゅうしゃく)であると言われています。噛み砕いて言えば、「目の前にある文字をどのようにして読むか」だけをやるということです。

―それは古文や漢文を読むということですか?

石川:古文でも漢文でも、目の前の文章、言葉を読むということですね。余計なものを加えない。理想を見出したり、素晴らしい価値を持った何かがあると単純に信じて解釈したりしないということです。ただひたすら読めないものを読むのです。

じつは、日本最古の和歌集である『万葉集」には、未だに漢字のままで解読されていない和歌があります。このような、いままで誰も読めなかった古典を読み解いていく、というのが國學院大学の昔からの伝統です。

―読み手の解釈を挟まないということでしょうか。古典研究というと、ただ解読するだけではなく、昔と現代との共通点を見出したり、いままでの研究でなされてきた読み方と比較したりする作業が一般的だと思っていたのですが。

石川:たとえば、「明治時代の研究よりも新しい解釈をしよう」とか、「この表現はなぜ明治時代には見逃されていたのだろうか」といった問題意識を持つことが、現代的な読み方だろうということですよね。

ただ一方で、このような考え方もあると思います。つまり、明治時代の読まれ方と比較してどうこうせずとも、いまを生きるわれわれが一生懸命に古典を研究して読み取れたものは、必然的に現代を写し取っているのだろうと。そうだとすると、何が昔で何が現代かということを考えても仕方がなくて、素直に文章の意味を感じ取れば、それがいまの時代に合った読み方になるのだと思います。

―だからそのまま読もうと。

石川:それが訓詁注釈ということです。どうしたって、読み方は昔と現代では変わってきますからね。先入観をはさまずに読むという意味では、企業の方が言われる「普通に話ができる」ということにつながるのではないかと思います。

落ち着いて読書、研究に取り組める図書館

落ち着いて読書、研究に取り組める図書館

なぜか5・7調がしっくりくる日本人。日本文学の源泉は「歌」にある

―グローバル化が進んでいる現代では、海外の人たちが日本の文化について知る機会も増えていると思います。そのとき、日本の文学はどのような価値があると思いますか?

石川:学生には、海外で日本のことを話すときは、文学について考えてほしいと言っていますね。私はいつも、「日本文学というのは歌です。和歌だと言いなさい」と伝えています。『万葉集』はおそらく日本最古の文学といえますが、日本では和歌のような表現が一番長く続いているのです。だから日本のさまざまなものに、和歌から派生した表現が隠れています。

俳句も、もともとは和歌から始まったものです。それに芥川龍之介の小説を読んでいても、和歌の言葉やリズムが取り入れられていることがわかります。つまり、和歌は日本文学の源流にあるのですね。

―おそらく日本人にとって気持ちのいい言葉の組み合わせやリズムがあるのでしょうね。

石川:なぜかわからないけれど、日本人は5・7調というのがしっくりくるのですよね。警察の交通安全スローガンなどもよく5・7・5になっているじゃないですか。なぜあのリズムがいつも採用されるのか、おそらく客観的には説明できないと思います。しかしそれは、言い換えれば、「説明がつかないことのほうが人間の心のなかに食い込む」ということでもありますね。

―どうして人は説明のつかないものを好むのでしょうね。

石川:なぜでしょうね。しかし、理由が自分でわからなかったとしても、何かに心惹かれる、好きであるという気持ちは大切にするべきだと思います。その気持ちをすくい上げるのが文学の役割ですよね。いまの世の中は、人の個人的な好き嫌いを馬鹿にしすぎているように感じます。でも人間はいつの時代でも、好き嫌いの上に知性を築いてきた人を尊敬してきたように思います。つまり、自分の好きなことにまっすぐに進んで、自分の人生を形づくってきた人のことです。そういう人こそが、これまでも、そしてこれからも社会を支えることになるのだと信じています。

石川 則夫

國學院大學文学部学部長・教授。1957年生まれ。1981年國學院大學文学部文学科卒業。1990年國學院大學大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。1996年、國學院大學文学部日本文学科に就任。

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