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「国の基を究むるところ」
國學院中興の祖・芳賀矢一の足跡【学問の道】

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研究開発推進機構助教 髙野 裕基

2020年6月6日更新

 國學院大學渋谷キャンパスの正門を入ると左手に「國學院中興の祖」の一人と称される芳賀矢一の胸像がある。この胸像は、芳賀の没後、昭和12年2月6日に本学で十年祭を執り行った際、遺徳を顕彰するために建立された(製作・本山白雲)。

除幕式が行われた当時の芳賀矢一胸像(昭和12年)

 芳賀は、慶応3年に越前国(現・福井県)に生まれた。父は国学者・神職で内務省の神社課長も務めた芳賀真咲である。明治22年、文科大学国文学科に入学。ここで小中村清矩、物集高見、バジル・ホール・チェンバレンらに教えを受け、25年に大学院へ進学し、小中村の許で国文学の研究を進めた。31年、東京帝国大学文科大学助教授となり、33年から1年半のドイツ留学、帰国後の35年同大学教授に就任した。翌36年12月、國學院の院友会で「国学とは何ぞや」と題して講演し、留学によって得たドイツ文献学の知見を用いて新しい国学の在り方を説いた。その方法論は、芳賀の没後に遺稿集として出版された「日本文献学」(『芳賀矢一遺著』所収)に詳述されている。

 明治40年代から大正9年7月までは、国定教科書編纂の公務に忙殺され、学者としての研究は阻まれたとされる。そのような多忙な時期において、大正7年に皇典講究所・国学院大学拡張委員となり、同年12月には本学学長に就任した。就任時には建学の精神を基盤として国学を興隆することを宣言し、9年には大学令による本学の大学令大学昇格に尽力した。また、12年に本学が従来の校地である飯田町から現在の渋谷の地へ移転した際には、「国の基を究むるところ」と建学の精神をうたいあげた校歌を作詞している。

 晩年の11年には東京帝国大学名誉教授となるも、長年の労苦により、ほとんど見えないほどに視力を損なっていた。昭和2年、心臓性喘息のため61歳で生涯を終えた。

 前記の十年祭執行後には記念講演が催され、当時学長であった河野省三による「芳賀先生の遺徳を偲ぶ」、東京帝国大学教授で本学でも教鞭をとった藤村作による「芳賀先生と明治時代の国文学史研究」、本学教授の折口信夫による「国学と国文学と」が講じられて、多様な視点から芳賀の学問を本学の学統に位置付けるとともに顕彰した(『國學院雑誌』第43巻第3号所収)。

 今年、本学の経営母体であった皇典講究所の創立より、138年を迎える。同時に、明治23年の國學院設立から130年の節目であるとともに、芳賀が尽力した大学令大学昇格から100年の節目を迎える。この節目の年を芳賀の学問を通して「國學院の国学」を再考する契機としたい。学報連載コラム「学問の道」(第25回)

 

 

 

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