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単なるパワースポットではなく
地域のアイデンティティとしての神社

神社は、古代から日本に根を下ろす“ソーシャルキャピタル”「人に支えられ、その背中に神様がいる」Part.1

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神道文化学部・准教授 藤本頼生

2020年7月9日更新

 初詣、初宮参り、七五三詣、厄除けなど各種のご祈願──、私たちの生活に欠かせない神社。

 普段、神社と接点がない人であっても、ひとたび足を踏み入れれば、なぜだか“厳かな気持ちになる”ことは珍しくなく、“神聖な場所だからこそ、二礼二拍手一礼を間違わないように”という具合に、妙に構えてしまう。

 その一方で、私たちはどこまで神社について理解しているのだろうか?
 なんとなく「とても大事な場所である」ということは分かっているけれども、神社がどのような存在で、私たちとどのような関係性を持っているのか、とくにご近所付き合いの薄い都会暮らしにどっぷり浸かった人ならば、あまり深く考える機会はないかもしれない。

 「一日、一年、一生。神社神道というのは、日本人の暮らしや社会生活の習慣のあり方の基盤になるもの」

とは、神道文化学部 神道文化学科・藤本頼生准教授の言葉だ。

 神社の存在は、私たちに何をもたらすのか。2回にわたり、神社の今昔とこれからを探る。

 

 

 現在、神社本庁包括の宗教法人として登録されている神社の数はおそよ約7万9000社。藤本先生は神社について、

 「宗教的文化資源としての祭りの意義や、「氏子」「総代」などと呼ばれる神社の鎮座区域に居住する地域住民の人的なつながりの意義や価値を抜きにしては語ることはできない」

と話す。「氏子」――、誰もが一度は聞いたことがある言葉だろう。改めて説明をすると、氏子によって支えられている神社を氏神神社と呼び、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する住民を「氏子」と称する。氏子を代表し神社との連携をはかる役職が「総代」だ。

 江戸時代の村々(藩政村)には、「小字」と呼ばれるような地名単位の集落・区画があり、これらは明治中期に行われた市町村合併によって大字へとまとめられることとなるが、現在でも細分化した小地名としても、いまだ使用されている地域もある。「明治初年の神社数の調査でもわかるように、かつては小字ごとに神社がありました」と藤本先生が説明するように、それだけ小さな集落や区域単位にお社(おやしろ)があり、それを祀る小区域に暮らす人々のコミュニティがあったという。

 「例えば、國學院大學の周辺は、今では渋谷区東や広尾と呼ばれる住所区域ですが、その昔は下渋谷村や豊沢村と呼ばれる村々でした。昭和初期の地名でいえば、渋谷町の大字町名で氷川町や若木町、常磐松町、金王町があり、今ではあまり使われなくなってしまった小字地名には、氷川裏、羽沢、伊藤前、常磐松、伊勢山などがありました。例えば、実践女子大学の裏手にあたる小字が伊勢山ですが、そこには太神宮と呼ばれるお社が存在していましたし、伊藤前には現在でも伊藤稲荷神社があります。町名や字名には変遷がありますので単純にはいえないところもありますが、そう考えると、今もある氷川神社や金王八幡宮以外にも小字レベルで、この地域周辺を守護する社があったともいえるわけですね」

 全国津々浦々に小さなコミュニティが存在し、そうした個々のコミュニティを包含するように神社の氏子地域が存在するというのだから驚きだ。

 「複数定義があるため、一概に氏神と氏子の関係性をくくることはできないのですが、お社の大きさに関係なく各地域で氏神さまを祀る文化が根付いています。また、地域によって祭りをはじめ、神々の祀り方や習わしなども異なります。神輿の担ぎ方や練り方一つとっても地域ごとに慣習が異なることはよく知られていますが、例えば、神職の太鼓の叩き方一つとっても、片手/両手でばちを持つなどといった差異はもとより、中国地方では大祓詞を唱和しながら叩くこともあるように、多様性が見られます」

 厄年や還暦などの人生儀礼にしても、虚空蔵菩薩を祀るお寺や神社に十三参りをする地域もあれば、「十三参りって何ですか?」という地域があるほど。氏神と氏子の関係性は、その土地々々によって異なり、氏子がいることで神社に命が吹き込まれる側面を持つ。
 

 

神社は地域における社会貢献も担う

 

 

 一方で、地勢的な問題、鎮座に至るまでの歴史的経緯や由緒などにより、氏子を持たない崇敬神社と呼ばれる神社もある。明治神宮や東京大神宮はその代表格だが、地縁や血縁的な関係を持つ氏子区域に支えられるのではなく、特別な信仰などを持った崇敬者の篤い信仰的な支援によって維持されている神社もある。

 崇敬神社とは異なり、氏子が支えている氏神神社は、あくまで地域のコミュニティありきということになる。そのため、「年中行事やお祭りだけでなく、地域に対する社会貢献やアカウンタビリティなど、なすべきことが少なくない」と藤本先生は説明する。地域における社会貢献の一例として、神奈川県高座郡寒川町に鎮座する寒川神社を挙げる。

 「昭和44年に寒川外科医院が廃業するにあたり、地域住民の医療が乏しくなる状況を鑑みた寒川神社が、助け舟を出す形で神社の社会福祉事業の一環として病院を立て直すことになりました。今では寒川病院が総合病院として地域医療を支える柱となっています。寒川神社のケースは、大規模な社会貢献の例ですが、神社は伝統的な行事を通じて、地域のなくてはならない存在になっていくことで、このような役割を担うようになっていくこともあるんですね」

 普段、いたって普通に参拝している私たちからすれば、目からウロコかもしれない。何気なく訪れた神社――と来訪者は思うだろうが、根を下ろす住民たちにとっては欠かせない役割を持つ特別な存在。地域のお祭りが行われる際に、氏子しか担げないお神輿があることもまた氏子文化であり、地域のアイデンティティというわけだ。

 「地域に対して何かできることはないか、といったことを考え続けている神職の方はたくさんいます。コミュニティを活性化するために知恵を絞る……一例を挙げるなら、氏子さんの中に書道の上手なご高齢の方がいらっしゃれば、御祈願のお札書きを手伝ってもらったり、神社の社務所の一室を使って書道教室を開いたりなど、特技や技能を活かして地域の人々に還元させる工夫をしています。あるいは子育て支援のために、神社の施設の一部を貸し出して、お年寄りと若いお母さん、子どもが交流しているような神社もあります。地域の神社が、高齢者の方への予防福祉的な役割や氏子さんの力を借りながら地域活性化のエンジンになることも珍しくないんですね」

 

地域コミュニティが減衰していくと…

 しかし、近年は宅地開発や人口減少によって地縁が薄まることで、氏子の数が減少している地域も少なくないと藤本先生は話す。人口が多い都市部においても地域コミュニティが減衰しているのだから、非都市部ともなればなおさらだろう。屋根を支える梁が老朽化し、減少しているようなものだ。

 

 

 「例えば、新興住宅地ができることによって、地域住民と神社との関係性が明確に変化してしまうこともあります。その地域に数百年前から代々住み続けてきた人々による氏子地域や町内会があったとします。30軒しかなかった町内会の宅地開発が進み、新たにマンションが建てられ、300世帯が移り住んで来たとしましょう。町内会の会長が、地域の祭りを今までのように行おうとしても、新住民の方が明らかに町内会の中で多いわけです。つまり、新住民の対応いかんによっては、これまでの氏子区域(町内会)と神社との関係性がまったく変化してしまう可能性があります。氏子意識がない人もいれば、そもそも地域のコミュニティに全く関心がない人もいるでしょう。人間対人間である以上、神社が取り持つとしても、非常に難しくデリケートなところがあります」

 

 

 さらには、先述した明治の市町村合併、そして関東大震災、住居表示法の施行、昭和や平成の大合併など、近現代の日本の地名は統廃合されてきた経緯がある。それまで身近であった小字や大字がなくなり、新地名が付けられるなど、住んでいた地域の名前が変われば、地縁を抱きづらくなる人も多い。氏子地域の地盤を揺るがしかねない地理的要因も段階的に起こっていた背景がある。

 「兵庫県神戸市中央区下山手通1-2-1に鎮座する生田神社は、かつては鎮座地の区の名称が神社名にちなむ、生田区と呼ばれる名称でした。ところが、1980年に区域再編が行われ、生田区は葺合区と統合して中央区になってしまった。港町神戸を象徴する「神戸まつり」が行われる神社ですから、生田区がなくなってしまったことは、地域のアイデンティティや住民の統合意識を考える上で非常に残念であったと思います」

 氏子組織、しいては地域のコミュニティが弱体化していく中で、「今後の参考になるのではないか」と提言するのが、明治期に行われた“神社整理(神社合祀)”だと話す。

 「明治18年の国の調査では、日本の神社数は約19万社あったとされ、ほぼ自然村の数と同じであったと考えられています。ところが、その後、対外戦争である日露戦争では、国家予算の約7倍というお金が軍事費として支出されました。10万人余りの戦没・戦病死者、さらには戦時下の大増税と、地方では働き手の男性が減り、人心ともに地方の農村部が疲弊・衰退していく中で、失われた国力・民力をいかに取り戻すか――、そういった動きの中で政府の地方改良運動の一環として、神社の統廃合や廃祀などの再編を行う神社整理施策が行政主導で行われました」

 なぜ神社が? そう疑問に思う人も多いだろう。だが、藤本先生は興味深いデータを挙げて、神社と地域の重要性をさらに解説する。

 

神社整理施策がもたらしたもの

 「現在でも、地域のコミュニティ調査といった類のアンケートがよく行われるのですが、例えば、京都大学の広井良典教授が近年行った調査では、地域を代表するものは何ですかという問いに対して、回答として、小学校や中学校、公民館が1位、2位に上がる中で、神社は5位に挙げられています。この結果は、それだけ神社が今でも地域のアイコンとして認知されているということでもあります。明治期の各地域における神社の重要性は、今とは比べ物になりません。明治政府の内務官僚たちは、小学校の校長先生や神社の神主を、いかにして地域振興の旗振り役として、精神的な部分を含めてどう活躍してもらうかを真剣に考えていたわけです」

 政府の地方改良運動の一環として行われた神社整理施策。博物学者として知られる南方熊楠ら知識人は、敬神思想・愛郷心を希薄化させ、古伝承や小さなコミュニティを破壊すると反対運動を行ったが、最終的に約19万社あった神社は、明治39年に始まった神社整理施策がおおよそ終息した大正6年までに11万8000社ほどに減少してしまう。実に約7万余の神社が合併、または統廃合されたことになる。この政策によって何がもたらされたのか。

 

 大阪府内のある神社の復興記念碑。明治40年に神社整理施策で別の神社に合祀された社を戦後旧社地へ復興したことが記されている。

 

「神社整理施策は、一村一社、あるいは一町村一社にすることで、小さいお社の土地を売り払い、基本財産を大きくした。結果、神職もおらず祭典のままならない小規模の神社が減り、地域の潤滑油となるべく活動する神社専任の神職が増えた地域もありました。当時の官僚は、経済的な合理性のみを重視・追求して神社の基本財産を増加させることが主眼で、一番大事なはずの、人々の崇敬心、精神的な側面は軽視していたのです」

 合理性を重視し、専業の神職がいる神社を増やし、明治の市町村合併にならって地域の連携も深めようと試みた神社整理だが、さらに興味深いのは、約7万の神社が消失したにもかかわらず、明治10年代から昭和20年まで約60年間の神職数は13000人~15000人とほぼ変わっていないという点だ。

 「社家とよばれるような累代神社を支えてきた神職の家がある一方で、戦前期のそれぞれの神職の家の経済的側面を考えると、現在の兼業農家にあたるようなものではないが、職業としての神職の態様が如何なるものであったのかという職業観にかかわる問題も今後、神職のあり方を考える上で検討しなければいけない問題」と藤本先生は解説する。

 「神社整理は、47都道府県でばらつきがありました。三重県、和歌山県、大阪府などは積極的に合祀が行われたのですが、古社の多い京都府をはじめ、新潟、千葉、熊本県などではあまり行われなかった。そのため新潟県は、現在、日本で最も(神社本庁が包括する)神社を有する都道府県となり、全国の神職数は戦前期に比べ大幅に増加しているにもかかわらず、一人で30社、40社を兼任するといったことが珍しくなくなっています。現在の神職数から考えると、この事実は、地方における実質的な神職数がむしろ減少しているということを意味します」

 地域コミュニティのアイデンティティの消失に加え、実質的な神職数の減少……まさにダブルパンチとはこのこと。これでは神社崩壊を招いてしまうのではないか? ひとまず神職数だけでも増やせないものか?

 そんなことを考えてしまいそうなものだが、明治の神社整理はもっと示唆に富んでいる ── のだが、その続きは、後編に譲ろうと思う(後編につづく)。

 

取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(原生林) 企画制作:國學院大學

 

藤本 頼生

研究分野

近代神道史、神道教化論、神道と福祉、宗教社会学、都市社会学

論文

「神職」と「労務」を考える―神道の労働観・職業観と奉務規則・神職概念を手掛かりに―(2020/03/10)

『古事記』神代巻に登場する異名同種神の解釈の再整理と地域分布―「阿須波神」と「波比岐神」をめぐって―(2020/03/10)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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