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10度目の「3.11」
災害と宗教を考える【前編】

「ふるさと」を守る祈りと踊り

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大國魂神社(福島県いわき市) 山名隆弘宮司(昭39卒、72期史、平27修・123期博後史)、山名隆史禰宜(平2卒、98期史Ⅱ、平3修・99期神専攻)

2020年2月20日更新

 間もなく10度目の「3.11」が巡ってきます。平成23年3月11日に発生した東日本大震災は死者・行方不明1万8428人(令和元年12月10日現在、警察庁まとめ)を記録し、戦後最悪の自然災害に直面した我々の暮らしも変化せざるを得ませんでした。各地で「ふるさと」の復興が進むなか、復旧すらままならず5万人近くが不自由な避難生活を強いられています。一方で地域の中核として機能してきた神社や、そこを舞台とした祭礼・民俗芸能の復活に守るべき「ふるさと」の姿を追い求める人々もいます。東日本大震災で國學院大學の院友や教員が体験した実例から、宗教とりわけ神道が果たすべき役割と今後の課題を2回に分けて探ります。前編は、福島県いわき市で震災後に「千度大祓」を続け、民俗芸能復活にも尽力した大國魂神社の山名隆弘宮司(昭39卒・72期史、平27修・123期博後史)とご子息の隆史禰宜(平2卒・98期史Ⅱ、平3修・99期神専攻)の体験を紹介します。

地域ぐるみで守り守られてきた民俗芸能

 「3.11」で家族を失った知人を目の当たりにした山名宮司。「神も仏もない」と嘆き悲しむ知人の姿に、「神職はこんな時に何ができるのか」と悶々としたそうです。余震が襲うたびに涙がこぼれ、辿り着いたのは「よみがえれ」という思いで、その思いが伝統芸能の復活支援や千度大祓(※1)の斎行につながりました。

浪江町の苕野神社跡地で奉納される「請戸の田植え踊」(平成31年2月、黒﨑教授撮影)※無断転載を禁じます

 山名宮司が取り組んだのは、原発事故で帰還困難地域となった浪江町に鎮座する苕野(くさの)神社で300年以上にわたって奉納されてきた「請戸(うけど)の田植え踊」の復活支援。東京に避難した踊りの保存会員が、踊りの写真を探していることを知ったことがきっかけでした。さっそく連絡を取り、震災の年の8月に予定していた母校の卒業生組織「國學院大學院友会」福島県浜通り支部の総会で披露してもらう段取りをした山名宮司は、分散避難していた踊り手の子どもらが稽古のために集まり、涙を流して抱き合った姿を今も忘れられないと言います。その後、民俗芸能の調査・保存に尽力する民俗芸能学会福島調査団長を務めるなどして民俗芸能の調査・保存に尽力していた懸田弘訓さんらに協力を仰いで衣装や道具を整え、迎えた本番の日には県内外に分散避難した浪江の人たちも集まり、涙を流して踊りを見くれたそうです。

 被災早々の復活を皮切りに各所から声がかかるようになり、伊勢神宮、明治神宮、出雲大社などでの奉納も経験し、浪江町の避難指示が一部で解除されたことを受けて苕野神社跡地で奉納することもできました。「今は何も残っていない場所ですが、ふるさとの神社の小さな祠の前で踊りたいというのが皆の念願だったようです。『ふるさとで踊りたい』という思いは強いものですね」と山名宮司は述懐します。

 「田植え踊の復活に関わって身にしみたのは、民俗芸能を習い覚えた者たちが互いに抱き合って涙を流して『もう一度できる』という喜び。奉納が終って『また来年!』と希望を持って前進しようとする気持ちもあります。そして、踊りを通して在りし日のふるさとを懐かしく思い出す人々の姿。それを第三者が見ても清々しく、まさに『よみがえる』心地になれるのです」と山名宮司。さらに、「田植え踊は年長の女性陣が着付けをしたりおしろいを塗ったりして家族ぐるみで支え、連綿と続けてきました。震災後に生まれた2歳、3歳の子が『あたしもやりたい!』といって踊りの仲間に入ってきます。小さな着物を仕立ててもらい、踊る姿を目の当たりにすると、『民俗芸能はエネルギーを持っている』と思わざるを得ません」と、地域ぐるみで守り伝えられてきた民俗芸能の重さを強調します。

 大災害に直面して神職ができることは何でしょう?「ひたすら『よみがえり』を祈ること。『よみがえり』『よみがえれ』『よみがえる』・・・そのようなキーワードだと思います。日本人は本質的に、これは神道の精神でもあるのですが『よみがえり』を信じています。祈りが通じるまで祈るということが大切です」と東日本大震災を経験した山名宮司は言葉に力を込めます。

※1 いわきでの千度大祓では、100人の神職が10巻の大祓詞を読み上げる。

次代を担う後輩へ 「若い人々には学問を大切にしてもらいたい。震災時に痛感しましたが、学問が身についていれば学術的に冷静に分析することでパニックに陥ることも防げます。昨今の状況では、いつどこで同じような災害が起きるかもしれません。國學院大學の学生には、日常の心構えとして考えてもらいたいです」

 

生きとし生けるものの「よみがえり」を願う

 震災の後、多くの人が「何かしなくては」と思ったはずです。被災者の一人ではありますが、隆史禰宜も「宗教にかかわる者として」という思いは強かったといいます。そんな時、親交のあった地元の水族館「アクアマリンふくしま」が7月の「海の日」を目指して復帰宣言したことを知り、犠牲となった動物たちも含めた生きとし生けるものの生命力の「よみがえり」を願う思いと、八幡様で行われていた「放生会」(※2)を合わせたものとして立案したのが「千度大祓」です。

アクアマリンふくしま(いわき市)で行われた千度大祓(令和元年7月、黒﨑教授撮影)※無断転載を禁じます

 千度大祓では、あえて「神社」の名前を出さず、一般の団体としていわき大祓の会が組織されました。隆史禰宜が震災直前まで神道青年全国協議会の理事を務めていた関係で、そのネットワークを通じて大祓の趣旨を説明したところ、余震、放射線などの問題があるにもかかわらず多くの人から反応がありました。準備を進めるうち、「阪神大震災を経験した生田神社(神戸市)の大祓の御神火を篝火として焚き、その前で千度大祓をやりたい」という話が出たそうです。阪神大震災で日本が大きく変わったことが念頭にあったのですが、その希望を実現させてくれたのが兵庫県の神道青年会で、顧問を務める伊弉諾神宮の本名孝至宮司は大祓の様子を全国に発信してもくれました。隆史禰宜は「神社界の先輩をはじめ多くの人に背中を押され、勢いでとにかくやってしまったというのが1回目の実感」と振り返ります。

 震災翌年の春頃、「2回目はどうする」という話が出ましたが、多くの関係者が「どんなことでも手分けしてやろう」と再び背中を押してくれたため、「10年はやろう」ということに。國學院大學神道文化学部の教員が肝煎りとして助力し、2回目から本学の学生も大祓に参加するようになりました。「神道界や母校のネットワークが思いのほか広がり、非常に驚かされました。これほど協力態勢を仰げるとは」と隆史禰宜は言葉を詰まらせます。令和2年7月19日に節目となる10回目の大祓を予定されています。

※2 仏教思想に基づく供養の行事だが、大分・宇佐神宮、京都・石清水八幡宮、福岡・筥崎宮など八幡神を祀る神社でも斎行されている。

大國魂神社の山名隆弘宮司(左)と隆史禰宜

次代を担う後輩へ 「(今年の千度大祓には)最初の段階で参加した学生にも集まってもらいたいですね。復興の足跡を確認しながら斎行できれば。國學院大學の学生が千度大祓に参加してくれるのは非常にありがたいこと。この経験を自分で咀嚼(そしゃく)し、自分たちの将来に役立ててもらうことを望みます」

 

 

 

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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