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新生國學院大學の礎を築いた石川岩吉【学問の道】

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研究開発推進機構助教 髙野裕基

2020年2月6日更新

 昭和21年1月、國學院大學の経営母体であった皇典講究所は神社本庁へ結集することとなり、本学は同年3月に財団法人國學院大學として独立した法人となった。戦中期の本学を牽引した佐佐木行忠に代わり、同年8月に理事長兼学長へ就任したのが石川岩吉(1875〜1960)であった。

石川岩吉

 石川は國學院第3期生(明治28年7月卒)。卒業後は3年間の兵役を経て明治31年に、國學院で師事した湯本武比古が社長を務める開発社に入職し、雑誌『教育時論』の記者となる。34年には湯本と共著で『日本倫理史稿』(開発社)を刊行、同年9月には湯本の後任として國學院講師となり「日本倫理」を講じた。

 日露戦争に際して召集出征し、召集解除後の40年に國學院大學主事心得となり、皇典講究所に勤務した。42年には國學院大學主事兼皇典講究所幹事に就任して教務課長となり、同時に『國學院雑誌』の編集にも従事した。この間、『日本倫理史稿』を大幅に増補改訂した『日本倫理史要』(開発社、42年)を刊行。また天皇機関説をめぐる美濃部達吉と上杉慎吉による議論に示唆を受けて、唯一の単著である『国体要義』(開発社、大正2年)を刊行した。

 その学務から研究にわたる活躍は「國學院の石川か、石川の國學院か」と評され、國學院大學学監であった杉浦重剛の絶大な信頼を得た。その杉浦の推薦により4年6月に皇子傅育官に任じられたのをはじめとして、高松宮付別当心得(14年)、高松宮付別当(昭和3年)、東宮傅育官(11年)などを大正初期から昭和前期に至るまで歴任した。

 戦後の理事長兼学長就任後は新生國學院大學の維持発展に尽力し、財政再建のため22年に國學院大學後援会を設立、翌23年には全国の神社を巡訪して寄付金を募った。その際、「お願いに出るのに無駄な金を使っては済まない」として、利用する列車は常に三等車を使い、決して二等車を使わなかったと伝わっている。また、神道精神を基底とした建学の精神の堅持に努めつつ、各学部の開設や付属教育機関の開設に尽力し、さらには30年に新たな研究調査機関としての日本文化研究所の創設に尽くし、初代所長に就任した。34年9月、國學院大學理事長・学長を辞任。同年10月に本学から名誉学長の称号が贈られた。35年6月6日、慢性鬱血性心不全のため85歳で逝去。百日祭の日に胸像が完成して渋谷キャンパス内に建てられ、本学では現在に至るまでその業績を顕彰している。

 明治23年の國學院設立から130年を迎える本年は、新生國學院大學の礎を築いた、石川の事績や思想を再検討する最良の契機といえよう。学報連載コラム「学問の道」(第23回)

 

 

 

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