『教室はまちがうところだ』 蒔田晋治作/長谷川知子絵
教室はまちがうところだ。みんなどしどし手をあげて、まちがった意見を言おうじゃないか。まちがった答えを言おうじゃないか。まちがうことを恐れちゃいけない。まちがったものを笑っちゃいけない。まちがった意見を、まちがった答えを、ああじゃないか、こうじゃないかと、みんなで出しあい、言いあう中でだ、本当のものを見つけていくのだ。そうして、みんなで伸びていくのだ。
いつも正しく、まちがいのない答えをしなくちゃならんと思って、そういうとこだと思っているから、まちがうことが怖くて怖くて、手もあげないで、ちいさくなって、黙りこくって、時間が過ぎる。仕方がないから、先生だけが勝手にしゃべって、生徒はうわの空。それじゃちっとも伸びてはいけない。神様でさえまちがう世の中。まして、これから人間になろうとしている僕らがまちがったって何がおかしい。当たり前じゃないか。
まちがいだらけの僕らの教室。恐れちゃいけない。笑っちゃいけない。安心して手をあげろ。安心してまちがえや。まちがったって、笑ったり、ばかにしたり、怒ったり、そんなものはおりゃあせん。まちがったって、誰かがよ、なおしてくれるし、教えてくれる。困ったときには先生が、ない知恵しぼって教えるで、そんな教室つくろうや。おまえ変だと言われたって、あんた違うと言われたって、そう思う、だからしょうがない。誰かが仮にも笑ったら、まちがうことがなぜ悪い、まちがっていることが分かればよ、人が言おうが言うまいが、おらあ自分で改める。分からなけりゃ、そのかわり、誰が言おうと小突こうと、おらあ根性まげねえだ。そんな教室つくろうや。
小学校や中学校で教員をなさっていた蒔田晋治さんがつくった詩『教室はまちがうところだ』の詩の一部を紹介させていただきました。小学校や中学校で4月の学級開きの際、よく紹介される教師から子どもたちに向けた「どんどん間違おう、失敗しよう」というメッセージを伝える詩です。
子どもたちは学校生活の中で、短い時間の中でいかに効率的に答えを出していくか、先生たちも強迫観念のように生産性とか効率性みたいなことを求めていて、間違わせない、あるいは、間違った答えはスルーしてしまって正しい答えだけを、「そうだね、それが正しい答えだね」という風に出してしまう。日本の社会では、幼児期から早くすること言われた通りにやって余計なことをしないことを教師が徹底して指導するため、大人になって仕事でも、「早くしろ」「余計なことをするな」「何で言われた通りにできないんだ」なんていうことを、しょっちゅう口にしたり、耳にしたりしているのではないでしょうか。
「失敗を恐れない」クラスをつくろう
ちなみに私自身はここに立つまで、失敗だらけの人生でした。小学校時代はずっといじめられっぱなし。友達となかなかうまくいかない小学校生活を送り、大学受験ではこの渋谷駅近くにある某T大を希望していましたが、そこも見事に落ち、その後大学院で起死回生と思って研究者になりたいと思ったのですが、それもいろいろあって断念。その後、実は幼稚園教諭の免許を取ろうと専門学校に行くのですが、そこでも勉強がつまらないということで、心機一転、海外に飛び出して現地の幼稚園に勤めた後、日本に戻ってきて幼稚園、小学校と勤めることとなりました。
小学校に勤める中でたくさんの子どもたち、こういう、「間違うことを恐れない」素敵な子どもたちに出会って、自分も失敗を恐れずに頑張ってみようと思うようになりました。小学校の教師をしながら大学院に行き、そして今、大学で専攻していた心理学、そして幼児教育、小学校教育での経験と大学院での学び、それが今一本の線につながって、こうやって大学で教え、この場に立っています。
私は「失敗を恐れない」クラスづくりのため、4月の初めにいつもこんな約束をしてきました。たった一つの約束です。「このクラスではどんなことをしてもいい、自由である」と。ただし一つだけ約束を守ってほしい。それは、「みんなが幸せだって感じられるチームにしよう」ということです。その基準に照らすと、例えば自分が言いたいことを言い、やりたいことをやるといっても、それが誰かにとって傷つく言葉だったり、嫌な思いをする行動だったりすることも、みんなで幸せになることを考えたらそれはどうなんだろうということを、みんなで失敗を重ねつつ、何度も何度もそこに立ち戻って考えて、「じゃ、どうしていったらいいんだろう」と話し合う…そんなクラスづくりをしてきました。
子どもたちから間違いに気付かされた失敗の経験
実はこの写真の、これは私の大失敗場面、6年生の秋に行った宿泊生活での場面です。その宿泊生活の中では、お楽しみということで夜にナイトハイク、いわゆる肝試しがあります。山の中腹にある荘から頂上までみんなで行って、その山からペアになって降りてくるというお楽しみ行事です。今までは我々担任ががペアを決めていたのですが、最後だから、一緒に行きたい子がいればその子とペアにしてあげる、なんていうことを子ども達に言って、子どもたちの様子を見ていました。そうすると、意外に男の子も相談に来るんですね。「先生、僕、○○ちゃんのことが好きなんだけど一緒にペアで行きたい」と。で、こちらも「よし、考えておこうと」と言って、子どもたちのわくわく、そわそわしている様子をのんきに楽しんでいました。
さて、この後どうなったでしょうか。○○ちゃんは僕の名前を言ってくれているだろうか、□□君は私の名前を言ったらしい、というような噂が子どもたちの間で広がり始めました。○○ちゃんも□□君のこと好きなんだよね、だったら先生にペアにしてって言った方がいいんじゃない?なんていうことを友達に助言する子も出てきました。私もまだ若かったことと、子ども達との関係がよかったということで甘えていた、と今では大変反省していますが、子どもたちの間でどんどん噂になり、悲しい思い、不快な思いになる子が出てきたようでした。
ナイトハイク前日の午後の自由時間に、急に子どもたちがホールに集まり始めました。隣のクラスの担任と何事かと様子を見ていたら、一人の子どもが立ち上がって、「もう、こんなことやめようよ」と言い出すんですね。「みんな今まで「幸せなクラスをつくろう」「仲のいいクラスをつくろう」と言ってきたのに、今のこの状態は一体何?誰々が好きとか、誰々ちゃんが自分のことを好きだと言っているとか、そんなことを詮索し合ったり、噂し合ったり、これじゃ全然幸せじゃない、仲良しじゃないじゃないか」と。
その様子をホールの外から眺めていた私と隣のクラスの担任は、これはまずい、自分たちがしてきたことは子どもたちの心を本当に傷つけていたし、でもそうやって、そのことをおかしいと言える子どもたちに育っていたんだな、ということにも気付かされました。次の日の朝、子どもたちの前で、隣のクラスの担任と、自分たちのしてきたことは間違っていたということで謝罪した場面です。
そんな風に子どもたちも教師に対して、先生が間違っているよ、先生たちが直さなきゃいけないこともあるんだよ、なんていうことを伸び伸び言い合える、子どもに私も言いますし、子どもたちからも学ばされる、そんな素敵なクラスになっていきました。
ただここで大事なことは、単に失敗の経験を繰り返しているだけでは何も変わらないということです。恐らく私も、子どもたちの前で、子どもたちに謝れ謝れと言われて、ただ謝るだけでは成長はなかったと思います。
失敗した時、「リフレクション」して成長につなげるサイクル
では、変わるために何が必要か。私は一つ「リフレクション」を提案したいと思います。聞きなれない言葉かもしれませんが、教育界では有名な言葉で、20世紀初頭のデューイという教育哲学者が、子どもたちが経験を通して学ぶ、その経験をいかに成長につなげていけるかという時に、反省的思考すなわちリフレクションが大事だとしたところからスタートします。
リフレクションを簡単に言えば「反省」ということですが、反省だけならサルでもできるわけです。反省を、どうすれば成長につなげていけるのか。デューイの教育的な考えから経営のプロセスに転化した、コルブという学者の提唱しているサイクルを紹介したいと思います。
コルブは経験から学ぶために何が必要かということで、まず当然経験をする、そしてその経験を振り返るリフレクションが大切だとしました。リフレクションは過去に向けて、実際に自分がどんな経験、あるいは失敗をしたのか、またそれはどういうプロセスだったのかということを後ろ向きに振り返る反省を指しますが、コルブはその振り返りを生かして教訓を得ること、つまりこれから先のことに生かしていく前向きの思考が重要だとしました。
それが教訓化ということです。教訓化は、経験と振り返りから得られたことを活かして次の行動に向け、どのようなことが普遍的に言えるのか、一般化できるのかというところへ高めることです。つまり、未来志向のリフレクションと言えます。
リフレクションには必要な3つの問いかけ
実際に、この経験の振り返り、教訓化、次の行動、のプロセスを経て、さらに成長していく子どもの姿として、先ほど私が謝罪したクラスでの、ある子どものエピソードを話したいと思います。
その子は3、4年の時から知っていたのですが、何かあると、「どうせ僕が悪いんだ!」と言って教室を飛び出しちゃうような子でした。その子が自分のクラスに来ました。その子はさっそく、4月の第2週頃だったと思いますが、朝、泣きながら私のところへ駆け込んできて、「先生、僕はもう駄目だ、あの委員会はやめる!」と言ってきました。
いつも彼は大体そんな感じで、自分が失敗したことで頭がいっぱいになってしまって、感情的になってしまい、そこから一歩も進めないでいたわけです。ただ、私が担任して初めてのパニック状態だったので、これは成長の機会だなと思い、まず彼の気持ちを落ち着かせ、それから何があったのか尋ねました。実はリフレクションをする際には、他者からあるいは自分自身への問いかけがとても重要で、今からその問いを3つ、エピソードをお話しながら紹介したいと思います。
まず、経験が本人にとってどんなものだったのかを振り返るための「What ?」という問いです。そこで私は彼に、「何があったの?」と問いかけました。彼の中では失敗してしまったことしか頭にありませんから、どういう時系列で、どういうことが起きたのか自分では整理できません。まず経験を整理するために「What?」の問いで振り返らせます。それでよくよく聞いてみると、彼は音楽委員会だったのですが、最初あまり上手に弾けなかったのですね。そうしたら先生が、お前は駄目だから先輩に習いなさいと言われたと。でも、先輩が教えてくれないと言うんですね。でもそこを突き詰めて聞いてみると、彼は先輩ときちんとしたアポイントメントを取っていないわけです。経験を振り返った後は、さらに、それがその人にとってどういう意味があって、どうなりたいのかなんていうことを考えさせるための「So What ?」の意味づけの問いです。直訳すれば「だから何なの?」ということですが、その人にとってのその経験の意味を問うわけです。彼は最初、とにかくもう委員会が嫌だ!辞めてやる!という感情だけに支配されていたわけですが、冷静に意味づけしてみると「先生に叱られることが嫌」「先輩が教えてくれないことが悲しい」と、経験に立ち返らせ、その意味を整理させることで、この後どうすればよいかという教訓化につなげていくわけです。「先輩といつ、どこで、ときちんと約束し、そこでなんの練習をするかっていうことを考えればいいよね」「先生に叱られないように一生懸命個人練習もして、できたら先生に見てもらうようにしよう」なんていう風にしながらその時は教訓化していきました。そして、この教訓化を促すのが、「Now What ?」の問いです。「じゃ、どうするの?」という問いで経験と意味づけを教訓にまで一般化して、それを次の別の行動に転移させることで新たな経験をよりよいものに導いていきます。こういう振り返りと教訓化のサイクルを3つの問いによって回していきながら、失敗を成長につなげていくということです。
さて、そうやって、いろんな失敗・経験を経て大きくなった子どもたちのこれが卒業式の場面です。このクラスは39人いましたが、私も含めて40人がひとりひとり、失敗と成長のエピソードがあります。ちょっとここでは紹介しきれませんが、本当に素敵なクラスになって、巣立っていってくれました。
皆さんが自ら失敗をしてしまった時、それを成長に変えていく、そのために「What ?」「So What ?」「Now What ?」ーー自らに問いかけて成長していってほしいと思います。あるいは、ここにいらっしゃる皆さんは部下や後輩がいたり、組織を抱えていらしたり方もいると思いますが、誰かが何か失敗した時、生産性や効率性にとらわれたり、あるいは上司である自分の顔色を見て自分の気に入る答えを探り当てさせたりするのではなく、「What ?」「So What ?」「Now What ?」という問いかけをし、相互の対話を大切にしながら一緒に成長する、そして間違いを恐れない、恐れさせない強い組織づくりをしていってほしいと思っています。
以上で私の話を終わります。ありがとうございました。
吉永 安里
研究分野
幼児期のことばの発達、小学校国語科教育
論文
「どうして?」「やってみたい!」があふれる幼児期の学び(2021/11/10)
『おおきなかぶ』における幼小の指導の連続性(2021/05/10)