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感じてほしい時代を投影した古墳

ゼロから学んでおきたい「古墳」④

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文学部准教授 青木 敬

2019年7月30日更新

 國學院大學では皇典講究所の創設以来、教育研究の柱の一つとして「国史」の研究を続けてきました。その中で「古墳」の研究はどのような存在なのでしょう? そして、これからどのような点に注目して「古墳」を眺めればよいのでしょう? 「ゼロから学んでおきたい古墳」の最終回として國學院大學文学部史学科の青木敬准教授に伺います。

國學院大學が発掘調査を続ける穂高古墳群のF9号墳=長野県安曇野市

群集墳の造り手は技術を持った新参者?

Q 考古学実習として長野県安曇野市で群集墳の調査を続けていますね

A 10年以上にわたって穂高古墳群の中のF9号墳の調査を続け、調査は最終盤にさしかかっています。これまでの調査、研究の蓄積によって、出土した遺物だけでなく、群集墳と集落との関連性に注目するようになりました。集落の近くに群集墳があるところと、目立った集落がないのに古墳だけが多いというところがあります。穂高古墳群は残っているだけで80基以上ありますが、近くに大きな集落が見つかっていません。ムラから離れた墳墓、その距離感から「古くからそこで暮らす人とムラから遠い群集墳を結び付けてよいのか」という議論が出てきているのです。

Q そのような群集墳の担い手は誰でしょう

A 第一に考えられるのは、屯倉(みやけ)など倭(やまと)王権が設置した施設に関わる人々です。そこに中国大陸や朝鮮半島からの渡来人が含まれていたとしても不思議ではありません。当時、王権にとって鉄資源の獲得と並んで大切だったものに日本列島には生息しなかった馬の調達があります。朝鮮半島で騎馬民族国家が強大化したため、4世紀末ごろから列島へも大量に馬が輸入されて各地で飼育が始まります。穂高をはじめとする飼育の適地には令制で規定された「官牧」と呼ばれる国有の牧場が出現しました。こうした牧場の存在を古墳時代に遡らしてもよいとすれば、馬の飼養技術に長じた渡来人らを移住させた可能性もあるでしょう。ですから、古くから定住する人々の墓とは別に、新たに穂高へやってきた集団が造ったのが穂高古墳群ではなかろうかと推定しています。

 穂高古墳群からは馬を操る道具、すなわち馬具も数多く出土しています。F9号墳の馬具からは折れた部分の補修痕まで見つかっています。それまで未開の原野だったところに王権が馬の生産拠点を作ったことで、新たにできたお墓が穂高古墳群だとすると、王権の動向をうかがうことのできる遺跡としても非常に興味深いです。

F9号墳で発見された鉄製の馬具

遺跡のためにも身の丈に合った研究を

Q 穂高古墳群の発掘などを通じて感じることは何でしょう

A 「実物は動かしようがない」ということに尽きます。発掘調査によって明らかになった「動くことのない事実」を広く理解してもらえるレベルで発掘調査報告書にまとめる作業こそ、考古学を学ぶ学生たちに一番取り組んでほしいことです。学術的に極めて価値の高い遺跡調査に携わった学生は後になって「あれは凄かった」と振り返るでしょうが、それは遺跡調査にとって最善とは言えないかもしれません。なぜなら遺跡や遺構の再検証は難しく、遺跡調査に取りかかる前にきちんと遺跡の価値が分かった上で、仮設を提示し、その仮説を検証する場として遺跡向き合ってほしいからです。「学生の身の丈に合った調査をしよう」というのが、私の大学における発掘実習のポリシーです。

Q 國學院大學の考古学における古墳研究は

A 大場磐雄先生(※1)、さらに遡って考古学を本格的に講じられた鳥居龍蔵先生(※2)がおられます。大場先生は学史に残るような発掘も手がけていますが、戦後しばらく発掘調査ができる組織は大学等の一部機関に限られていたため、大場先生の教え子をはじめとするわれわれの先輩がたが各地で手がけた発掘調査は、本学の考古学の歩みを考えるうえで欠かせません。

 その後開発が激増したことにともない、行政が組織的な発掘調査を行うこととなり、もはや大学で対応することが難しくなります。しかし以降も、國學院大學で学んだ多くの人材が自治体の専門職員となって、各地の埋蔵文化財の発掘調査をリードしています。

※1 大場磐雄 おおば・いわお(1899~1975)、日本の考古学者。東京の旧制正則中学在学中から鳥居龍蔵に師事し、國學院大學国史科でも薫陶を受けた。在学中に折口信夫博士の影響で民俗学にも傾倒。「折口信夫の五博士」の一人に数えられる。大学卒業後は内務省神社局考証課に勤務した後、母校の教授に就任し各地で発掘調査を主導するとともに神道考古学を体系化させた。

※2 鳥居龍蔵 とりい・りゅうぞう(1870~1953)、日本の人類学・考古学・民俗学の研究者。旧制の高等小学校を中退した後に独学で人類学を学ぶ。東京帝国大学の坪井正五郎博士に師事し、同大の講師、助教授を経て1922(大正11)年に國學院大學教授に就任。3年後に上代文化研究会(現在の國學院大學考古学会)を立ち上げ、考古学・民俗学の研究環境を整える。

発掘調査の成果は学生たちの手によって毎年報告書にまとめられる

古墳の原風景を守った黄門様と地元民

Q 百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界文化遺産に登録されたことで古墳に対する見方は変わりますか

A 世界遺産登録の経過だけでなく、陵墓と陵墓参考地を管理する宮内庁書陵部(※3)の姿勢が陵墓の調査成果公開に際して近年大きく変化したことは高く評価されます。しかし、明治以降、陵墓と参考地を尊厳を保つためとして発掘調査をしていませんので、今後も実施できるかといえば、難しいと思います。

 明治の初めにやってきたウィリアム・ガウランド(※4)という英国人技師が奈良県の巨大前方後円墳を写した写真があるのですが、木が繁茂した現在の姿からは想像できないほどあっさりとしていて驚かされます。地元と古墳とのつながりは陵墓と参考地が管理され始めたことで断ち切られ、150年ほどの間に原生林化したのです。ですから、今の古墳をイメージさせる景観は近代以降に作られたもので、昔からの古墳の姿ではありません。

※3 宮内庁書陵部 皇室関係の文書、資料、陵墓などの管理を行う機関。図書課、編修課、陵墓課の3課に加え、多摩陵墓監区事務所(東京都八王子市)、桃山陵墓監区事務所(京都市伏見区)、月輪(つきのわ)陵墓監区事務所(京都市東山区)、畝傍(うねび)陵墓監区事務所(奈良県橿原市)、古市陵墓監区事務所(大阪府羽曳野市)が置かれて各地の陵墓等を管理している。

※4 ウィリアム・ガウランド 「日本考古学の父」と呼ばれる英国出身の冶金技師で研究者(1842~1922)。1872年に大阪造幣寮(現造幣局)の技師として招聘され、16年もの長期にわたって勤務するかたわら日本各地の古墳を実地調査。帰国後に「日本のドルメンと埋葬墳」「日本の初期天皇陵とドルメン」などの論文を発表した。

Q 初心者でも分かる古墳の楽しみ方を教えてください

A 古墳の名称を見てその特徴が分かったりもします。全国に二子山という古墳が多いのですが、あれは後円部だけでなく前方部も高いから二子なのです。ピークが2つあるわけです。反対に、墳丘が低いものは茶臼山とか茶臼塚という名になります。車塚という古墳も古い時期の例が多いですよ。牛車の形に似ている古墳です。大きな後円部を牛車の本体に見立て、牛が牽くほうが前方部になるわけです。昔の命名は非常にうまいところ捉えていると感心します。

Q 見ておくべき古墳がありますか?

A 岩手県から鹿児島県まで主要な前方後円墳を観察してきましたが、古墳は地元の人が守り伝えてきたことが重要なのだと痛感しています。その観点から、古墳が造られてから地元との関わりが寸断されることなく続く好例として、栃木県大田原市にある上侍塚・下侍塚という前方後方墳をお勧めしたいですね。

 「地方の有力者が葬られているのでは」と徳川光圀が調査を命じ、出土品の記録を取った上で埋め戻されていることから日本で最初の学術調査だといわれています。その後も地元の人々が大事に手入れをしてきたので原生林化しておらず、美しい墳丘が堪能できます。古墳が造られた当時は復元整備された神戸の五色塚古墳のような姿で、しばらくすると侍塚のような姿になる。各時代の歴史を投影した形で今の古墳がありますから、昔の古墳をイメージするには栃木県の2基(上侍塚・下侍塚)がダントツですね。

青木 敬

研究分野

日本考古学(古墳時代・古代の考古学)

論文

古墳の墳丘構築と土掘り具(2019/10/25)

考古学における三次元計測技術の導入と利活用―古墳時代・古代における用例を中心に―(2018/11/30)

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