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経済 X 宗教「ピンチを乗り切る4つのポイント」

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國學院大學文学部准教授 藤本頼生

2016年4月25日更新

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突然訪れた神社界最大の危機

 きょうは「ピンチを乗り切る4つのポイント」ということで、「失敗」というものを、少し変化球を投げるような形でお話してみたいと思います。

 日本は2000年以上の歴史があるといわれています。しかも、日本には神話の世界からつらなる神々がいて、その神々を祀る神社があって、2000年以上の歴史を持つ神社といわれるものもたくさんあります。そうした神社にも、70年前に未曽有の危機が訪れました。「この国から神社は要らない」、とまで言わしめた出来事が起きたのです。それは第二次世界大戦で日本が「敗戦」したことにさかのぼります。

 70年前にさかのぼると、神社は国家の管理下にありました。神社は神祇院という専門の官庁の下、伊勢神宮を中心にしたピラミッド型の官国幣社や府県社、郷社、村社、といわれる社格制度があり、神職は官吏待遇にありました。こうした制度や関係法令が突然廃止されるということが決まりました。その理由は、昭和20年12月15日に神道指令が出されましたことによります。これは敗戦後に日本を六年余りにわたって間接統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から、いわゆる国家神道の廃止と全国の各神社の民間への移行を内外に宣言するという指令でした。この指令によって、結果として突如、神社というものがわずか数ヶ月で国の公法人から民間の一私法人に転換するということが起きたわけです。

 その意味では、神社界最大の危機というものが訪れたわけです。そうした中で、政府は実に何も考えていなかったんです。それはなぜか。2000年の歴史があって、日本には当時、神社が10万以上ありました。日本の神々と日本人の関係を考えたとき、あるいは伊勢神宮と皇室の関係を考えたとき、「いやいや、そんな、GHQが来たからといっても、間接的な統治の下だし、簡単につぶされない、大丈夫だよ」という風に考え、あまり行動を起しませんでした。

 一方、神社界の方も、今までの国家管理の制度の中で大きなヒエラルキーがあって、自分たちも、まあ何かあったとしても、神宮や神社は「そんな簡単に無くなりはしないよ」「GHQだって、日本の精神の魂のような神社をおいそれと無くしはしないから」ぐらいにしか思っていませんでした。

実際に当時、神社を管理していた神祇院総裁を兼ねていた内務大臣は、民間の神祇関係3団体のトップを集めて「神社のことをよろしく頼む。もう、うちは何もできないから、あんたたちでやってよ」と突然言い放ったのです。その3つとは、國學院大學を経営していた皇典講究所と大日本神祇会という神職たちの連合組織、伊勢神宮の教化宣伝団体であった神宮奉斎会でした。

神社界の危機に救世主?立ち上がった3人

 神社界も内務大臣からの突然の宣言を受けて、「えっ?」となるわけですが、実はそうした状況の中、言い方は悪いかもしれませんが、今のドラマ風にいうと「3匹のおっさん」ですが、3匹ならぬ、3人の老紳士が神社界を救うことになるのです。

 ひとりは孤高のチームリーダー、吉田茂です。名前からすぐに総理大臣を思い浮かべるかもしれませんが、戦前においては「目白の吉田」、「大磯の吉田」と称されたほどに、戦前においては首相を務めた吉田茂よりよほど有名な政治家であった人物です。吉田茂は、國學院大學を経営していた皇典講究所の専務理事、実質上のトップをも務めていました。戦前には今でいうところの内閣官房長官にあたる、内閣書記官長や厚生大臣を務めた政治家としてはエリート中のエリートで、「革新官僚」と呼ばれる当時の行政官僚たちを率いた団体をつくったりもしていた。そういう意味では、非常に政治力に長(た)けたチームリーダーとなる人物像を持っていました。

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この吉田茂は、突如、単独でGHQに交渉に行きます。何もしない政府に対して、一私人の立場で神社を救うために立ち上がっていきます。GHQに直接乗り込んで交渉しに行くことによって神社の危機を救うことになるのです。

 もう一人、異端のスーパークリエーター、葦津珍彦(あしづうづひこ)という人物も紹介したいと思います。葦津は言葉で示すならば神道人、神社人という言葉が適切かもしれません。神職ではありませんが、神社の神職の家に生まれ、神主にはならなかったのですが、戦前は内務省の要注意人物で政府批判の運動をしたり、一方で、台湾檜など社寺のための木材を調達する会社を経営していました。実はこの葦津は、「敗戦後の日本にあって、神社の行く先は危ないよ」ということを、昭和20年8月15日の玉音放送が流され、日本が戦争に負けたという段階で既に察知しています。では、そこで彼はどこに向かうか。先ほど述べた吉田茂のところに行くんですね。8月17日の時点ですが、「この先、占領下になると神社が無くなるかもしれない」と。今すぐにでも、神社を救うための算段を考えないと、これは大変なことになるということを吉田に進言したのです。

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これに対し吉田茂はどう言ったか。「葦津君、君は緒方竹虎(たけとら)を知っているだろう」と。今でいう内閣官房長官を務めていた緒方竹虎のところに行かせるんですね。「情報を収集して来い。とにかくGHQが何を考えているのか、あるいは政府が何を考えているのか情報を収集してこい」というわけです。以後、クリエーターの葦津は、情報を収集しつつ、神社を救うための、さまざまな方法を考え出していきます。

 そしてもう一人が、希代のカリスマモデレーター、宮川宗徳(みやかわむねのり)という人物です。彼も神職ではなかったのですが、戦前は内務官僚を務めたり、東京市の市議会議員を務めたりした人物です。私財を投げ打ってでも神社界を救おうという気概に満ちた宮川は、國學院大學の卒業生で、自身が熊本の阿蘇の神職の家に生まれながらも神職にならなかったのですが、その行政で鍛えた実務手腕を生かして、神職らの組織である大日本神祇会との間でさまざまな調整役に徹します。この宮川も、当時、先ほど述べた民間の神社の関係の団体のトップである神宮奉斎会の専務理事を務めていました。

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常識破りで逆転の発想

 この3人が相重なって、3本の矢のように協力して、何もしない政府、手を組もうとしない神社界に対して、「いや、こういう方法があるんじゃないか」ということを言っていきます。

 それは何か。当時、神社の神職さんたちの連合組織であった大日本神祇会では、当時、神社が国家の管理じゃなくなくなるのなら、伊勢の神宮を中心にしてお寺の本山・末寺のような関係で、糸でつながったような形で、神社教のような一つの宗教団体をつくればいいじゃないかと、考えていたのです。でも、実はこれは当時の政治情勢では非常に危険な考え方でした。それはなぜか。GHQは、日本が戦争を起こしたのは神社のせいだ、国家神道のせいだと考えるわけです。ですから、占領下のなかで、神社や神職が少しでもGHQに対して歯向かうような姿勢を見せることがあれば「いつでも神社を潰しまっせ」という考え方をとっていた時期なんですね。

 一方、葦津は何を考えていたか。「いや、こんな神社教のような考え方ではGHQの思うつぼ」だと。なぜか。「伊勢神宮を潰してしまったら教団としての神社も全部終わる。それじゃあ、神社はこれから先、生き残っていくことはできない」ーーそう考えました。じゃあ、どうするか。実は、もう一つあるんですね。緩やかなお皿の上に神社を載せた、横並び型の神社連盟的な団体をつくりましょうと、考えるわけです。これはどうしてかというと、中心となる本山を潰せば末寺も含む教団全部が無くなるシステムではなく、連盟型、連合体型の横並びです。ですから、お皿の上で互いがけんかもしますが、緩やかなお皿なので、GHQが一つひとつの神社をいちいち潰していくことは大変で、これはなかなかたやすくできることではない。個々の神社が単独でありつつも緩やかに各宗教法人を包括するような仕組みでの連合体型の法人組織の設立です。

 葦津の狙いは、とにかく神社をこの先、占領下の間にGHQに潰させないようにするために、どうするのかを考えた時、本山ー末寺のような結束型の組織よりも、緩やかな連合体の方がうまくいくのではないかということにありました。吉田は、当時政治家としてはそれなりにトップを極めており、皇典講究所という國學院大學という大学を経営していた母体のトップでもありました。宮川も神宮関係の団体のトップです。葦津は、3つの民間の団体のうち2つを押さていたことになるわけで、そうした関係性の中でこの3人がその連合体型の案に賛同する形で神社界へ合意形成を図っていったわけです。

3人の共通点とは?

 そうした、3人の神社界を救った老紳士には共通することがあります。一つは、いずれも神職ではないこと。もう一つは非常に無私の精神、つまり自分はどうなってもいい。自分の私財を投げ打ってでも、とにかくこの日本の国という中で神々との関係を含めて、神社というものがこの日本にとって非常に大事な存在で、これを何とかして残さなければいけない。そのためには私利私欲は、全く関係なく、何とかしなきゃいけない、と考えた。もう一つは精神的に非常にタフな方たちなんです。どんなことがあろうと、どんなことを言われようと俺はやるぞと。そういうことを考えています。もう一つは常識破り。常識をよく知っていなければ、その常識は破れません。葦津は、クリエーターとして、非常にそうしたことに長けていました。一般的な人とはむしろ真逆の発想を考えるんですね。葦津は単なる保守の運動家ではありません。左翼的なことも非常に勉強していました。もう一つは、肝が据わっていること。吉田は、誰もやらないんだったら俺が行くぞと、一私人の立場で、たった一人でGHQの宗教課に乗り込んでいきます。で、「課長のバンスを出せ」と。「俺は、民間の神社関係団体のトップの一人として、神社を残すために、こういう風な案を考えている。GHQの方は日本の神社を一体どうしたいと考えているんだ」ーーこんな風に言っていくんです。

 もう一つは、時代の先を読んでいたことです。葦津は、神社を救うための組織として、先に述べた連合体型の神社本庁という、現在では全国にある約7万9000の神社を包括する、これは全国の神社の97%にあたるものですが、その神社本庁という組織を結果的に作り上げることになりました。70年前の混乱の中で、葦津は神社界を危機から救う「仮のバラック」のようなものだとのちに述べましたが、その神社本庁を作り上げたわけです。でも、仮のバラックであっても70年も続く大きな組織となったたけです。つまり、すぐれた先見の明があったわけです。それは、占領下の中で、GHQからいつ潰されるか、分からないという恐怖感の中で、どうやって神社を残していくのかということを一生懸命に考え、時代の一歩先を見据えていた結果でもありました。

 3人の共通点のもう一つは、非常に学識に裏付けられたものを持っていたことです。例えば、葦津は共産主義、社会主義も非常に勉強していました。ですから、単に神道とか神社のことだけを専門に勉強していた神道人、神社人ではありません。しかも、3人とも神職ではなかった。だからこそ、先を見通す力があったのかもしれません。

 本日お見えのビジネスマンの皆さんにぜひ考えていただきたいのが、人々には、それぞれの役割があるということです。みんながみんな、社長になるわけではありません。例えば忍者、影武者のような役割をしなきゃいけない人物もいます。知恵袋やタフな交渉役みたいな立場、役割をしなきゃいけない人物もいるかもしれません。でも、そういったときに一つ言えることは、やはり「あなたはどれだけ先を見ていますか?見えていますか?」ということです。先を見る力も、混迷を極めるこれからの時代、社会には、さらに大事になってきます。そのためには、自分が、「どうしよう、どうしよう」と、うろたえながら考えるのではなく、自らが置かれた状況を冷静に把握、分析し、自らが信じるものに向かって何かを力強くやっていくということも実は大事なのかもしれませんし、その力を支えるための学びもとても大事なのかもしれません。

 最後に偉そうなことを申し上げてしまいましたが時間が来ましたので、そろそろ話を終えたいと思います。どうもありがとうございました。

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藤本 頼生

研究分野

近代神道史、神道教化論、神道と福祉、宗教社会学、都市社会学

論文

「国家ノ宗祀」の解釈と変遷について(2023/06/30)

『THE SHINTO BULLETIN Culture of Japan』Vol.1 Uzuhiko Ashizu「The Shinto and Nationalism in Japan」 Yoneo Okada「The Faith in the Ise Shrine」について(2023/06/30)

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