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渋谷にも古代人がいた! スクランブル交差点に人が集まるのは必然だった!? 
渋谷を発展させた“地形からのメッセージ” 
~Part2~

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研究開発推進機構 准教授 深澤太郎

2019年5月24日更新

 渋谷と言っても、エリアによって表情はさまざま。
 東、松濤、富ケ谷(奥渋谷)、宇田川町、円山町、代官山町などなど、それぞれのエリアによって気質や雰囲気に特色があり、渋谷という名称が示す通り、かつて渋谷には多くの川が流れ、スクランブル交差点は谷の真ん中だったほど。
 高台、低地、川沿い……自然の要因が絡み合うことで、現在の渋谷が作り出されたのだとしたら、古代から渋谷を紐解くことで、今につながる発見があるに違いない。
 今回は、渋谷の考古学を知悉する深澤太郎・研究開発推進機構准教授に、古代から現代につながる渋谷の魅力を、

Part1「そもそも渋谷とはどんな地形なのか?」 
Part2「渋谷周辺に点在する遺跡、史跡」
Part3「古代から現代まで渋谷の街はどう変わっていったのか?」

異なる3つの視点から紐解いてもらう企画を実現。
    なぜ人は渋谷に魅せられ、そしてこの街に人が集まるようになったのか? Part2では、実際にどのような暮らしと文化が築かれていたのかを、渋谷周辺に点在する遺跡や史跡を巡って考察していく―

 

シブヤカルチャーの原点は台地にあり!
旧山手通りは、大使館、アパレルショップ、古墳が並んでいる

 

 「“東渋谷台地”と呼ばれる國學院大學、氷川神社、広尾周辺一体に縄文人や弥生人が生活していたことは説明しました。次の古墳時代にも人々が生活していたことを示す存在が遺跡地図の▽記号で示した遺跡です。これは「横穴墓」と呼ばれる人間を埋葬した施設です。高台から川に下る斜面に見事に並んでいますよね」(深澤先生、以下同)

 


(CAP)川や谷に沿って横穴墓(▽記号)があることがわかる。
(東京都教育庁地域教育支援部生涯学習課「東京都遺跡情報インターネット提供サービス」(http://tokyo-iseki.jp/map.html)より掲載。閲覧日:平成31年3月29日)。

 

 残念ながら、現在は「横穴墓」の姿は確認できないものの、かつての調査で多数の存在が明らかになっており、“西渋谷台地”の斜面にも幾つか存在したことが図からも一目瞭然。生活拠点となる“上”、生産拠点となる“下”ではなく、中間である斜面に死者を埋葬する施設を作ったというあたりに、古代人の暮らしの一端を垣間見ることができる。ウインズ渋谷に古代人の墓があったというのは、いろいろな意味で感慨深い……。

 「Part1で歩いた“西渋谷台地”の入り口とも言える庚申橋ですが、ここにはその名の通り庚申塔が建てられています」

 

~庚申塔とは~
 中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。
庚申信仰とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)と呼ばれる虫が、庚申の日の夜に熟睡すると体内から三尸虫がはい出して天に上り、その人の悪事を天帝に報告しに行くことで病気や早死にあうと信じられていた。そこで、それを避けるために庚申の日の夜は、夜通し眠らずに天帝や猿田彦、青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習をしていた。日本に伝わったのは平安時代からと言われ、渋谷周辺に広まったのは、江戸時代初期とのこと。

 

 「注目すべきは、石塔に記されている地域名です。麹町、四ツ谷、瀬田ヶ谷、用賀というように、非常に広範囲であることが分かります。庚申信仰は、“講社(グループの意)”が結成され、一晩中眠らないで夜明けを待つため当番の家に集まります。つまり、それだけ広い範囲の人々の信仰を集めていたということ。なぜ、ここにそれほどまでに人が集まるようになったのか……それはPart3で説明しましょう(笑)。今から1万年ほど前は、低地を人が往来するなんてことは日常的ではなかった。ところが、次第にこのような場所も人々の生活や交通に欠かせない場所になっていたということです」

 

時代の生活様式のレイヤーが眠る“西渋谷台地”

 

 「ちょっと江戸時代まで進んでしまいましたが、今一度、古代に巻き戻りましょう。“西渋谷台地”の上にあるのが猿楽古代住居跡公園(猿楽町遺跡)です。弥生土器が出土しているため、かつてはここに弥生人が暮らしていたことがわかるんですね」

(CAP)サークルの中に古代住居を復元したが焼失してしまい、今の姿に

 

 「また、この西側には、縄文時代よりも古い旧石器時代の遺跡(鉢山町遺跡・猿楽17番遺跡)もあります。猿楽古代住居跡(猿楽町遺跡)は今から1700年ほど前の遺跡ですが、“西渋谷台地”には3万年も前から人間が暮らし始めていたということ。もちろん、周辺環境はもとより、時代ごとの文化や生活スタイルは全く異なりますが、人々がこの土地を利用し続けていったことが伺える。旧石器、縄文、弥生時代とだけ聞くと、何となくイメージが湧きませんが、僕たちの足元にレイヤーのような歴史が埋まっているんですよ」

 “西渋谷台地”に眠る多くの遺跡は、我々に、近代都市渋谷の地下が広大な歴史の宝庫であることを教えてくれる。教科書からは学べない歴史のリアリティを、渋谷の古代人が実感させてくれるのは、なんとも知的かつ奇妙な体験だ。

 「旧石器時代の人間たちは、土器を持たず、生で食べるか火で焼いて食べるしかなかった。ところが縄文時代になると、土器が生まれ、煮炊きする文化が生まれます。時代が下るにつれ、保存用の土器なども作られるようになる。その後、弥生時代になると米作りが主体になるため、貯蔵するための壺が数多く作られるようになり、デザインもシンプルになっていきます。猿楽古代住居跡(猿楽町遺跡)で出土した土器は、その形や文様から弥生時代後期のものであることが判明しています」

 縄文時代は狩猟、漁撈、採集によって生計を立て、弥生時代は稲作を基盤として生活を安定させていたことは周知の事実。深澤先生に、「米作りの痕跡も残っているのですか」と聞いてみると、意外な答えが。

 「この周辺ではその痕跡は見つかっていません。もしかすると、ここから離れた場所で米作りをしていたのか、あるいは台地を侵食した沢筋の谷戸に田を営んでいたのかもしれませんね。それを想像してあれこれ考えることができることも渋谷の魅力」と深澤先生が笑うように、地形と暮らしは切っても切り離せない関係性というわけ。

 「“西渋谷台地”の南端にも、古代人の文化を知ることができるスポットがあります」と深澤先生は続ける。それが古墳時代の墳墓、猿楽塚だ。

 「はっきりとは断定できませんが、6~7世紀に築造されたと言われている古墳です。台地にあって、このような部分的に盛土になっている場所と言うのは、明らかに人の手によって造られたもの。広大な台地の場合、塚状の古墳が作られることが珍しくありません。例えば、芝公園(芝台地)や、上野公園(上野台地)にも塚状の古墳がたくさん発見されているんですよね」

(CAP)町名の起源にもなっている猿楽塚。高さは5メートルほどもある。朝倉家によって、「猿楽神社」が建立されている

 

 弥生時代、古墳時代になると、貯蔵、貯蓄が盛んになったことで、権力や富を持っていることを誇示するようになり、古墳という大々的な墓が生まれる。古墳時代の塚状古墳、横穴墓……生活の空間が営まれた台地の縁辺や斜面に、死者の空間が作られた。

 「開墾や開発が盛んに行われていた渋谷という場所だからこそ、周辺では猿楽塚しか残らなかったのではないでしょうか。見方を変えれば、大使館やオシャレなお店が建ち並ぶ旧山手通り添いに、古代人の墓があるというのはファッショナブルとも言える(笑)。古代から現代までの歴史が幾層にも重なった場所が“西渋谷台地”です」

 

(CAP)猿楽塚周辺の西渋谷台地に遺跡が集まっている。「おそらく遠い過去には、塚状の古墳がたくさんあったことが予想される」(深澤先生)
東京都教育庁地域教育支援部生涯学習課「東京都遺跡情報インターネット提供サービス」(http://tokyo-iseki.jp/map.html)より掲載。閲覧日:平成31年3月29日)。

 

渋谷の先は海だった!? 谷盛庄(やもりのしょう)と呼ばれていた渋谷

 

 深澤先生によれば、「渋谷にも貝塚がある」というから目からウロコ。たしかに多くの川が流れ、谷を形成していた渋谷だが、日本列島におよそ2500個所発見されている貝塚の4分の1近くは、東京湾の東沿岸一帯。海にほど近いイメージのある貝塚がなぜ渋谷に!?

 「暖かかった縄文時代前期には、渋谷の高台から確認できるくらい海が近かった。縄文中期になると、東京湾の方向に海退し、縄文人は南の低い台地上に進出していったことが考えられます。その場所が、“東渋谷台地”の南端、もしくは白金台周辺の“白金台地”。“東渋谷台地”と“白金台地”の境には、現在は首都高速2号線が走っていますが、ほど近い恵比寿三丁目交差点付近に豊沢貝塚が存在します。どちらの台地からもアクセスが良く、ゴミ捨て場としても重宝したのでしょう」

(CAP)今ではまったく痕跡がないものの、貝塚の他に、この周辺は泥炭層(水分が含まれているため有機物の残存状態が良好になりやすい)があることも知られており、そこから縄文後期の加曽利B式土器片などが発見されている。

(CAP)目の前に見えるのは、首都高速2号線。海退前は、ここから近い場所に河口が広がっていたと思われる。

 

 この付近に海があったと想像すると、にわか信じられない気持ちになる。と、同時に深澤先生は、「ただし……」とバツが悪そうに言葉を紡ぐ。

 「猿楽古代住居跡(猿楽町遺跡)にも言えることですが、「遺跡がある」といっても土中に埋まっている。これは我々の業界の大きな問題なのですが、目に見えないため伝えづらいこと、そして一般の方が関心を抱きづらいことにつながっています。海外の遺跡は、石で作られているケースが多いため、その分、現存しやすい。ところが、日本の遺跡はほとんどが木材なので、形として残りづらく、「ここが遺跡です」と伝えても「?」になる。これからはVRをはじめとしたテクノロジーを利用するなどして、研究者も遺跡の見せ方を考えていかなければいけない」

 考古学は、単に昔のことを調査するだけに終わらない。今にどうつながっているのか、そして保全や保存、教育や観光的観点を含めたこれからのことも考えていかなければいけない――。


(CAP)豊沢貝塚付近まで海が迫っていたというのは驚きだ

 

 「最後に、渋谷という地名を探りに行きましょう。中世まで渋谷は、谷盛庄(やもりのしょう)と呼ばれていたんですよ」。渋谷の前身は、谷から成る場所、谷盛庄(やもりのしょう)。古代人も、やっぱり「谷」だと認識していた! 1000年も前の人と同じ感覚を抱けるとは、なんとも不思議な気分。

 「Part1でも触れましたが、金王八幡宮は渋谷城の跡地に作られた神社です。平安時代末期から鎌倉時代にかけて渋谷城が存在し、この一帯を支配していたのが渋谷氏です。種明かしをすると、渋谷氏が入植したから渋谷になったのか……というのは解明されていません。なぜ渋谷になったのかは、いまだ藪の中なんですね」

 谷が多い場所に、たまたま谷の字を持つ渋谷氏が入植しただけでも、ものすごい偶然である。起源は謎だが、なんにしても谷なくして渋谷は語れなさそうだ。

 「渋谷城が、周辺を望む高台に位置する天然の要害として栄えたことは想像に難しくありません。まわりに川が流れていたため物資を運ぶ場所としても適していたのでしょう。また、幕府のあった鎌倉から諸国を結ぶ軍事道路「鎌倉街道」(現在の旧鎌倉街道、八幡通り)にほど近いことからも重要な拠点であったことが分かります」

 城が築かれたことでモノや人が集まるようになった。渋谷が近代に下るにつれ、栄えるようになったルーツの一つは、中世の渋谷城築城にある。ここからどのように人が集まり、スクランブル交差点の原型が誕生したのか。

 「豊かな水と街道があったからこそ渋谷に人が集まり始めた。その続きを、再び街を巡りながらPart3で紐解いていきましょう」

 

 

 

 

深澤 太郎

研究分野

考古学・宗教考古学

論文

「伊豆峯」のみち―考古学からみた辺路修行の成立(2020/06/18)

常陸鏡塚古墳の発掘調査(2019/12/25)

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