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柳田、折口の学問をつなぐ

伝承と変遷が刻む民俗学の歴史

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文学部 教授 新谷 尚紀

2018年12月20日更新

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 日本で最初に民俗学の講座を設置した國學院大學。現在は文学部日本文学科伝承文学コースを中心に、日本各地に伝わる習慣や文化を学ぶ民俗学の研究と教育が行われている。新谷尚紀・文学部教授は、自身が編纂した論文集「民俗伝承学の視点と方法―新しい歴史学への招待―」を昨年11月に出版するなど民俗学研究の発展に長年、寄与してきた。日本、そして日本人とは何かを知る上で欠かせない視点である民俗学。その歴史や手法、そして、日本民俗学の祖と称される柳田國男とその高弟、折口信夫が築いた学問を継承するに至った背景について、新谷教授に話を聞いた。

学問としての萌芽

 日本で「学問」と呼ばれるものは多くが欧米から輸入されたものであり、「民俗学」の創始も例外ではない。19世紀のドイツで庶民の生活、そして「ドイツ国民とは何か」を問うvolkskunde(フォルクスクンデ)=民俗学が生まれた。英国ではfolklore(フォークロア)=民俗学として、庶民の習俗や文化の研究が行われた。しかし、欧米での民俗学は単独では学問として大成せず、人類学や社会学が発達した。

 1910年代初頭の日本は、明治維新を経て兵士や職工として国のために働く者が増えていた。日清・日露戦争での勝利により、民衆こそが国力であり、民俗風習にこそ国力の根幹があるという考えが生じたこの時期に、欧米から「民俗学」が入ってきたという経緯がある

 当時、明治政府は日本を近代国家にするために画一的なルールを敷くことを図った。一方で柳田國男は、日本を知るためにはそれぞれの郷土の歴史と民俗伝承、風俗習慣など小さな事実を丁寧に調べ、意味を理解する必要があると考え、「郷土研究」を始めた。まだ学問として体系化されていなかったが、ここから柳田の民俗学が始まったといえる。

 柳田が昭和5(1930)年に発表した『蝸牛考(かぎゅうこう)』という論文がある。日本全国のカタツムリの呼び名を調べたところ、地域や時期によって「でんでん虫」「マイマイ」「ナメクジ」などさまざまな呼び方があることを発見した。古代の文献には、平安時代半ば(900年代)の『和名抄』に「カタツムリ」、そして江戸時代前期(1600年代)の『日次(ひなみ)記事』に「でで虫」という呼び名が登場する。こうした文献を調べただけでは「カタツムリは平安時代、でんでん虫は江戸時代以降に使われた呼び名」ということしか分からないが、聞き取りやフィールドワークを行って全国各地のデータを集めて分類、整理すると、それらよりナメクジが古かったことが明らかになる。フィールドワークにより、物事の変遷を見るのが柳田の手法であったが、当時、それを理解する学者はおらず、唯一、折口信夫だけが共鳴し、師と慕うのであった。

柳田國男

柳田國男

國學院と民俗学

 柳田は、folkloreの訳語としての「民俗学」ではなく、tradition populaire(トラディション・ポピュレール)というフランス語を「民間伝承」と訳し、これを自らの学問と主張した。「tradition(トラディション)=文化の伝承=は時間や空間を超えて伝える力であり、その裏にはtransition(トランジション)=変遷=がある」。つまり、歴史の中には伝えられるものと変わるものがあり、その二つである「伝承」と「変遷」が共存し、歴史が刻まれているのだというのが柳田と折口の考えである。

 科学技術の発展や社会の変化に伴い、価値観も変わり続けるが、われわれの〝日本人らしさ〟はいろいろな行事や習慣の中に、有形無形さまざまな形で残っている。このように、伝承の研究によって日本人という存在を考え、知ることが、柳田と折口の主張する学問であった。これは欧米の「民俗学」とは異なり、江戸時代に本居宣長らによって確立された日本独自の学問「国学」の流れをくみ、柳田は自らの民俗学を「新国学」とも称した。

 教授であった折口の尽力により、昭和15(1940)年4月、本学に民俗学の講座が新設された。折口は以前から「民間伝承学」という名称で柳田の学問を教えていたが、正式な講座になるにあたり、広く知られていた「民俗学」という名称に改めることとなったのである。

 こうして、柳田と折口により創生された学問は「民俗学」として、国学に深く通じるこの國學院大學において研究が続けられ、発展してきたのだ。

折口信夫

折口信夫

伝承分析のおもしろみ

 私は学生時代に偶然、柳田が主宰した「民間伝承の会」の機関誌を図書館で読み、民俗学を学ぼうと志した。歴史学、考古学それぞれではなく、それらに加えて柳田の手法である伝承学、さらに最先端の分析科学なども取り入れた〝総合的な歴史科学〟ともいえる柳田の民俗学に感銘を受け、それを継承したいと考え、今も学生を指導している。

 柳田のtradition populaireを継承する者としては、「民俗学」を、習慣や風俗の伝承と変遷を研究していく「生活文化伝承学」というふうに位置づけている。こうした学問は、100年前の欧米では芽吹きながらも大成しなかったが、柳田と折口が日本でその学問を築き、今の日本民俗学がある。柳田が言ったように、「多様な伝承文化は歴史の変化の過程を物語っている」。われわれの学問は、例えれば、上書きや消去を繰り返されたパソコンのデータの履歴を解明すること。現代の人に対しては、この説明が最も分かりやすいのではないか。過去の経験は消しても、その履歴は全て「伝承」に残っているのだから、それを分析することが民俗学のおもしろみである。

 私は、もともと憑(つ)き物に関する研究をしていたが、遺体の埋葬地と石塔建立の場所とを分ける「両墓制」の調査を始めてから、「葬式の変遷」「死のケガレ」などへと研究分野が広がり、「ケガレとは何か」というところに行き着いた。

 民俗学にも今やさまざまな研究手法があるが、柳田と折口の学問では「ケガレ」という概念がまだ設定されていない。そのため、私は『古事記』『日本書紀』など古代の文献や各地のフィールドワークによる調査で、ケガレ=power of death(パワー・オブ・デス、死の引力)という分析概念を設定し、それがカミ=power of life(パワー・オブ・ライフ、生の引力)と対概念をなすという結論に至った。研究を通じていろいろな民俗信仰の伝承や変遷を知ることでこのような結論を導くことができたのである。

 民俗学の対象、つまり伝承の歴史は、伝言ゲームのようなもの。その情報をしっかりと収集し、整理整頓すること。つまり、戦後民俗学の大掃除をするというのが今の自分の役目だと思っている。(談)

 

 

 

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