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戦後の苦難と新生國學院【学問の道】

新制文学部設置から70年①

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研究開発推進機構助教 渡邉卓

2018年9月27日更新

 昭和20(1945)年8月の終戦直後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は4つの「教育指令」を出した。すなわち、①軍国主義と超国家主義教育の禁止を定めた「日本教育制度ニ対スル管理政策」(10月22日付)②教師及び教育関係者の教職追放と適格審査を定めた「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」(10月30日付)③国家と宗教の分離、信教の自由を保護する「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(12月15日付)④三教科の授業を停止した「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(12月31日付)―である。

 その圧迫は本学にも及び、20年12月から翌年6月まで7回にわたりGHQの将校が来校し調査が行われた。時を同じくして、21年1月には皇典講究所が神社本庁へと発展的に解消されたことにより、國學院大学は単独の財団法人として発足することとなった。2月に大学設立委員会を開き、財団法人設立許可願を提出し、3月20日付で許可され、新生國學院大學が誕生した。だが、5月7日に「教職員の除去・就職禁止及復職等の件」が発せられ、そのなかで「教職不適格者として、審査委員会の審議を経ることなく指定を受けるべき者の範囲」の一つとして、國學院大學専門部附属神道部が挙げられ、神道部の卒業生は教職を追われ深刻な苦難に遭った。そして、8月には新生國學院の学長に選出されたばかりの佐佐木行忠をはじめとして、教職員が指定を受けて大学を去らねばならなくなったのである。

渋谷キャンパスの石川岩吉胸像

渋谷キャンパスの石川岩吉胸像

 この危機的状況にあって、佐佐木の後任として懇願され学長・理事長に就任したのが、大学理事を退任し隠棲していた石川岩吉であった。本学3期卒の石川は、かつて國學院講師、主事心得、教務課長などを歴任し、大正4年には皇子(迪宮、後の昭和天皇)傅育官としてご養育を担い、その後も高松宮付別当心得を拝命、そして昭和11年4月からは東宮(後の今上陛下)傅育官を務めた人物であった。経歴、人格からも、本学にとって戦後の困難を乗り越えるためには、石川が真の適任者であったのである。(続く)学報連載コラム「学問の道」(第10回)

 

 

 

 

渡邉 卓

研究分野

日本上代文学・国学

論文

「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)

「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)

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