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鹿島神宮に現れた遺跡
そこから見えた古代のフロンティア

考古学と古事記で巡る日本ヒストリー episode3

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神道文化学部 教授 笹生 衛

2018年4月13日更新

 「古事記」などで伝えられる日本の神話。それらの背景を考古学から迫ると、本当の〝古代〟が見えてくる。最終回となる第3回は、多数の祭祀遺跡が出土した鹿島神宮の歴史を明らかにする。

豊かな森の中にある鹿島神宮の本殿

豊かな森の中にある鹿島神宮の本殿

各地の遺跡をつなぐと浮かび上がる開拓のルート

 島根県の出雲大社に祀られる大國主大神(おおくにぬしのおおかみ)。『古事記』において、国土を開拓したその神に「国を譲ってほしい」と〝国譲り〟の交渉を行ったのが、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)だ。武甕槌大神は茨城県の鹿島神宮に祀られている。

 そして出雲大社と同様に、鹿島神宮の境内や周辺にも多数の祭祀遺跡が残されているという。

「鹿島神宮周辺からは5世紀の祭祀で使われたとされる遺物が出土しています。その中には当時繁栄したヤマト王権とのつながりを感じる物も多く、剣や鏡などを石で模した石製模造品、勾玉に細かな突起の入った子持勾玉は、ヤマトの中心地で出土したタイプに類似。5世紀に行われた鹿島神宮の祭祀は、当時の中央であるヤマトの影響下だった可能性が高いです」

 

 こう語るのは、國學院大學 神道文化学部教授の笹生衛氏。古代祭祀の遺跡から歴史を紐解く「祭祀考古学」の専門家は、鹿島神宮周辺を「関東でも特に古い祭祀遺跡」と説明する。実際、国家的な祭祀が始まったのは4世紀後半とされ、この連載で紹介した宗像大社(福岡県)、出雲大社では4世紀後半の遺跡が見つかっている。

出土した子持勾玉はヤマト王権で見られるタイプ。

出土した子持勾玉はヤマト王権で見られるタイプ。

 

「鹿島神宮で大規模な祭祀が行われた背景を知るには、他地域の遺跡がヒントになります。まず、房総半島の先端に位置する千葉県の小滝涼源寺では4世紀後半の遺物が出ており、さらに伊勢湾沿いの土器も含まれていました。石製模造品は鹿島のものと類似します。次に東北へ目を移すと、福島県の建鉾山遺跡では5世紀前半に祭祀の行われた形跡があり、やはり鹿島と同類の遺物が出土しています」

剣や勾玉、鏡を模した石製模造品が5世紀の祭祀に使われた。(鹿嶋市どきどきセンター所蔵)

剣や勾玉、鏡を模した石製模造品が5世紀の祭祀に使われた。(鹿嶋市どきどきセンター所蔵)

 これらの意味することは何か。ヤマト王権の置かれた奈良、そして上述した伊勢、房総、鹿島、福島の各地点を結ぶと「古事記におけるヤマトタケルの東征ルートとほぼ一致する」と、笹生氏は指摘する。現に遺跡も東に行くほど時代が後ろになっているのだ。

 当時のヤマト王権にとっては、近畿以東となる〝東国〟の開拓が命題であり、その様子を記した古事記の内容と遺跡の状況が符合する。つまり、4世紀から5世紀にかけてこのルートで東国の開拓を行っていたことが祭祀遺跡から分かるのだ。その歴史を8世紀頃に古事記で反映したことになる。

沿岸伝いに同類の祭祀遺跡が発見されており、ヤマト王権が東国開拓の各拠点で行ったと考えられる。

沿岸伝いに同類の祭祀遺跡が発見されており、ヤマト王権が東国開拓の各拠点で行ったと考えられる。

鹿島が持っていた特殊性 国家形成に大きな役割を果たす

 古事記の編纂がされた頃、鹿島は房総(安房)とともに「神郡」となっていた。神郡とは、そこで行われる神祀りを国家的に保障する地域。笹生氏は「東への勢力を広げる中で、鹿島神宮は開拓の最前線、まさにフロンティアでした。だからこそヤマトが重要と考え神祀りが発展したのです」と説明する。

 さらに8世紀や9世紀の遺物からも面白いものが見つかっている。鹿島神宮周辺の遺跡を調査すると、8世紀の遺物には当時の〝都〟である平城京の土器が混ざっていた。「鹿島の祭祀に対し、都から使者を送っていた可能性が高い」と笹生氏。また9世紀の遺物からは「神宮」と書かれた墨書土器が見つかった。厚い信仰が続いていったことが分かる。

さまざまな文字の書かれた墨書土器が周辺から多量に出土。

さまざまな文字の書かれた墨書土器が周辺から多量に出土。

 それにしても、なぜ東へ向かう際の拠点として鹿島が選ばれたのか。もちろん偶然ではない。そこには地理的・地形的な要因が関連している。

「まず房総半島は〝海の難所〟であり、そこを超えた地点となる鹿島は大きな意味を持ちました。加えて鹿島神宮周辺は、当時は今より内陸まで入り江が広がる優れた港湾だったのです。内湾に停泊できるほか、川伝いに船で北上することも可能だったため、まさに水上交通と陸上交通の結節点であり、だからこそ東征の拠点として重視されたのです」

鹿島神宮周辺は、かつて大きな内湾が広がっていた。そのため船のまま内陸を移動することができた。

鹿島神宮周辺は、かつて大きな内湾が広がっていた。そのため船のまま内陸を移動することができた。

 鹿島神宮には東西に鳥居がある。それはここが海と陸の結節点、西から東への通過点だったからだろう。とともに、内湾を挟んだ向かいには香取神宮があり、古くから「鹿島・香取」と並んで称される。両社は12年に一度「御船祭」を行うが、その所以は8世紀に成立した『常陸国風土記』にも登場する。ヤマトタケルの時代から伝わるとされる祭りだ。ここにも交通の要だった面影がある。

 過去に取り上げた宗像大社と出雲大社は、朝鮮半島や大陸という「先進文化」とつながる上での重要地点だった。一方、鹿島神宮はいわば〝未知の世界〟へつながる場所であり、非常に緊張関係が高かったと言える。

「とはいえこの3箇所に共通するのは、日本の国家形成に重要な場所だったということです。ヤマトを中心に一つの文化としてまとまる上で、大切な地点で神祀りが行われ、信仰されていった。それが8世紀頃に古事記や日本書紀へ記されたのです」

 歴史書が生まれる前、日本の人々はどんな道を歩んできたのか。各地に残る祭祀遺跡たちは、そのヒントを与えてくれるのだ。

 

古事記とは?

日本最古の歴史書で、数多くの神話を記載。國學院大學では、文部科学省の平成28年度「私立大学研究ブランディング事業」に「『古事記学』の推進拠点形成−世界と次世代に語り継ぐ『古事記』の先端的研究・教育・発信−」が採択され、大学独自の「古事記学」構築を目指している。

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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