日本においては、2019年ラグビーワールドカップ、2020年は東京オリンピック・パラリンピックと、スポーツのビッグイベントが続きます。さまざまな競技がある中、日本におけるその競技の伝統や起源を探っていくことで、グローバルなスポーツの中の「日本」を紹介いたします。(※画面の右上のLanguageでEnglishを選択すると、英文がご覧いただけます This article has an English version page.)
〜「蹴鞠」〜
◆「大化の改新」は蹴鞠がつないだ縁からだった?
蹴鞠(けまり)は、中国伝来の蹴球技で、「しゅうきく」、「くえまり」などとも呼ばれています。「四本懸(しほんかかり)」と呼ばれる桜・柳・楓・松の四本の樹を四隅に配置したフィールドにて、鹿皮製の円形の鞠を「やあ」「あり」「おう」などと、掛け声をかけて順に蹴りつなぐ球技・遊戯です。
蹴鞠の起源をたどると、『日本書紀』巻二十四、皇極天皇三年(644)正月条には、「打毱(「まりうち」・「ちゃうきゅう」の侶に預りて、皮鞋の毱の隨に脱け落つる」とあります。この条は、現在の奈良県の飛鳥、法興寺(現在の飛鳥寺)の槻(つき)の木の下で、中大兄皇子が毱(鞠)を打った際に、皇子の皮鞋が鞠とともに脱げ落ちたのを打毱の仲間に加わっていた中臣鎌足が拾ったことをきっかけに二人が親しくなるというエピソードですが、この時の「打毱」は、杖で鞠を打つという現在のホッケー風の競技であったと考えられているという説と、皇子の靴が鞠とともに脱げたという記述から、後世の蹴鞠を指しているという二説があり、後者の説を採用して蹴鞠の起源と考えられています。なお、この「打毱」が縁で親しくなった中大兄皇子と中臣鎌足がその後、大化の改新の大業をなしたことはいうまでもありません。
平安中期に記された『本朝月令』という年中行事の解説書に、文武天皇の大宝元(701)年5月5日に蹴鞠会が開かれたことが記されており、この記載からも飛鳥時代末から奈良時代初頭までには蹴鞠が日本に伝来していたと考えられています。
平安時代に入り、延喜~天暦年間、醍醐天皇や村上天皇の治世にあたる時期には、宮中の仁寿殿の東庭でしばしば蹴鞠が行われており、一条天皇の頃には蹴鞠が宮廷貴族の遊戯として流行し盛んとなりました。平安時代後期には、「鞠聖」と称された藤原成通や、大納言藤原忠教の四男で、「鞠道」の宗家とされる難波・飛鳥井両家の祖となる難波頼輔も登場し、とくに頼輔は後白河法皇から蹴鞠の才を認められて「蹴鞠之長」と称され、成通とともに蹴鞠の名人として都にその名を知られていました。また、後鳥羽上皇は自ら蹴鞠を楽しんだとも伝えられています。
鎌倉時代には、二代将軍の源頼家がとくに蹴鞠を好んだことから、京都から難波・飛鳥井両家が下向して鞠道の普及に努めたこともあって、鞠会がしばしば行われるようになり、結果、種々の制度が整うこととなりました。とくに前述の頼輔を祖とする難波家、飛鳥井家が鞠道の師範として公認され、後に両家の名前を冠した流派の他、御子左流、水無瀬流などの流派が生じ、これらに専従する公家は「鞠足」とも呼ばれていました。とくに室町時代に入ってからは、三代将軍足利義満や八代将軍足利義政が蹴鞠を盛んに行ったこともあって以後、和歌や茶の湯などともに武家のたしなむ技芸の一つともなっていきました。
戦国時代に入ると蹴鞠よりも相撲の人気が高まり、次第に下火になっていったと考えられていますが、江戸時代に入ってからは、井原西鶴の『西鶴織留』にも見られるように、再び上方(関西)を中心に蹴鞠熱が高まっていたと考えられるような記事も見受けられます。
◆神社に奉納される蹴鞠
蹴鞠は、かつては正月四日に恒例行事として「鞠始」が行われ、難波・飛鳥井両家がこれを務めていましたが、主に京都にいた皇族や公家を中心として親しまれていた遊戯であったことから、現代でも京都を中心に各地の神社などで奉納行事として催されています。
例えば、京都では現在、賀茂御祖神社(下鴨神社)にて毎年1月4日に「蹴鞠はじめ」が行われています。水干に袴、烏帽子を被った鞠人が、皮製の沓(くつ)で巧みな足さばきで鞠を蹴り上げていく姿は、実に壮観です。この「蹴鞠はじめ」は、明治時代に近代化が進むなかにあって、古来の伝統的な民俗芸能が廃れてしまうことが危惧されたこともあり、明治天皇によって蹴鞠を保存するようにとの勅命があり、明治36年に御下賜金をもとに蹴鞠保存会が創立されて、正月の神事の一つとして現在に至っているものです。
また、京都の白峯神宮でも、毎年4月14日と7月7日に蹴鞠保存会による蹴鞠の奉納が行われていますが、白峯神宮の摂社である地主社に祀られる「精大明神」は、鞠の守護神とされており、もともとは鞠道の宗家の一つである飛鳥井家の自邸にて祀られていたものです。この「精大明神」は、現在ではサッカーを中心とした球技上達の神・スポーツの神とされており、境内には現在、撫で鞠として信仰を集める「蹴鞠の碑」が建立されています。
この他、藤森神社(京都)、談山神社(奈良)、平野神社(滋賀)、金刀比羅宮(香川)などでも蹴鞠行事が行われているほか、近年では蹴鞠保存会の尽力にて、関西各地の神社においても蹴鞠の奉納が行われることもあるようです。
◆球技の神様??八咫烏(やたがらす)とサッカーとの深い関係
平安時代に蹴鞠の名人とされた藤原成通は、蹴鞠上達祈願のために熊野詣を50回以上行ったことが知られていますが、『古今著聞集』(巻十一)には、妙技「うしろ鞠」を熊野の大神の前で奉納したとの記録があります。蹴鞠はサッカーでいえば、リフティングやパスにあたる技の応酬で楽しむ遊戯ですので、その点では蹴鞠がサッカーのルーツかどうかは別としても、サッカーやラグビーと近似・類似する球技、遊戯ということは確実にいえましょう。
また、JFA公益財団法人日本サッカー協会のシンボルマーク、サッカー日本代表のエンブレムは、三本足の烏として知られる「八咫烏(やたがらす)」であることはよく知られていますが、この八咫烏は、先に述べた「鞠聖」の藤原成通も詣でた熊野本宮大社のご祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕え(神使)と考えられています。
加えて、八咫烏は賀茂御祖神社のご祭神である賀茂建角身命(古代の京をひらかれた神)の化身とも考えられていることから、「蹴鞠はじめ」行事のある賀茂御祖神社ともゆかり深いものとして知られています。さらに同社では、末社の雑太社のご祭神である神魂命(かんたまのみこと)はそのご神名が「球」に通じるとのことから、球技の神として崇敬されています。また、明治43(1910)年に第三高等学校(現京都大学)が同社の糺の森の馬場を用いて関西で初めてラグビーを行ったことから、日本におけるラグビーの聖地の一つとしても知られています。
八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場しますが、もっとも著名なのは、神武天皇の東征の際に、高皇産霊尊の命によって遣わされ、熊野国から大和国の橿原の地へと神武天皇を導いたとの伝承です。この故事に因み、八咫烏は「導きの神」として現在でも篤く信仰されています。日本サッカー協会のシンボルマークは、昭和6(1931)年に同協会の前身となる大日本蹴球協会がシンボルマークを創設する折に、漢文学者内野台嶺の発案をもとに彫刻家の日名子実三のデザインが採用されたことによるものですが、サッカーの日本代表においても、日本神話にみられる八咫烏の故事や蹴鞠の達人藤原成通の妙技のように、ぜひ思い通りにボールを操って、ゴールを奪い取り勝利へと導いて欲しいものです。
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藤本 頼生
研究分野
近代神道史、神道教化論、神道と福祉、宗教社会学、都市社会学
論文
「国家ノ宗祀」の解釈と変遷について(2023/06/30)
『THE SHINTO BULLETIN Culture of Japan』Vol.1 Uzuhiko Ashizu「The Shinto and Nationalism in Japan」 Yoneo Okada「The Faith in the Ise Shrine」について(2023/06/30)