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近代日本の教育方法学にみる姿勢と呼吸

身体性と自律のゆくえ −後編−

  • 文学部
  • 全ての方向け

文学部 日本文学科 教授 齋藤 智哉

2025年12月1日更新

 姿勢や呼吸が、学びの質につながることを教わった人は、昨今なかなかいないかもしれない。しかし戦前期の日本の教育では、こうした身体の在り方が重視され、しかもそれが子どもたちの自律的な学習に結びつくと考えられていた。子どもたちの自律性や主体性が重視される現在の教育現場のことを考えると非常に興味深いが、同時にここには奇妙なことに、全体主義への奉仕の芽も垣間見えるという……。

 教育方法学を専門とし、主に教職課程を担当する齋藤智哉・文学部日本文学科教授へのインタビュー、後編。刺激的な議論は、過去と現在を振り子のように行き来しながら、教育という営みの可能性へ向かっていく。

 

 

 インタビューの前編では、私が教育方法学の立場から、教育における「身体」や「型」に関心を寄せて模索を続けるなかで、近代日本の教育における「修養」というテーマにたどり着いたことをお話ししました。

 とはいえ、「修養」と「身体」にどんな関係があるのかと、不思議に思う読者の方もいるかもしれません。インタビュー後編では、この関係についてお話しできればと思います。

 前編で触れた、大正・昭和前期に綴り方教授で有名だった国語教育の実践者である蘆田惠之助(あしだえのすけ)は、教師の「修養」を主張しました。前編でも触れたように「修養」はcultivateやcultivationの翻訳語ですから、「修養」の差し当たりの意味は、自分自身を耕すこと、つまり自分を成長させることだと言ってよいでしょう。その「修養」の方法として、蘆田は岡田式静坐法を採用しました。簡単に説明すると、丹田呼吸法(いわゆる腹式呼吸)をしながら端坐瞑目(姿勢を正して坐って目をつぶる)することで身心を調(ととの)える方法です。蘆田は東京高等師範学校附属小学校在職時に、過度のストレスで身心のバランスを崩しました。知人の勧めで岡田式静坐法を始めたところ健康状態が回復し、その経験から静坐を教師の「修養」に活かそうと考えたのです。教師が成長するために、他者からの評価に振り回されない安定した身心は不可欠であり、静坐の継続という「修養」が欠かせないことを主張したのです。

 また、奈良女子高等師範学校附属小学校主事を務め、大正自由教育の代表的な人物である木下竹次の「修養」でも、身体は非常に重要な要素となっています。

 ここで、大正自由教育について、簡単に説明しておきましょう。19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界的に新教育運動という教育改造の試みが起こります。近代国家では国民に新たな知識や技術を効率よく教授するための一斉授業が主流でしたが、それでは子どもの探究心を育てにくいとして、「子ども中心」の教育が模索され始めます。日本では1910年代に入ってから「子ども中心」主義の実践が本格化し、大正自由教育として展開します。木下もその潮流に含まれる一人です。

 木下は、19世紀型の知識伝達を目的とした授業を「他律的学習」として批判し、「自律的学習」を唱えます。教師が話し続ける一斉授業では、子どもたちは受動的になりがちです。そのため、子どもが自ら主体的に学ぶ「自律的学習」に転換する必要があると考えたのです。木下は「自律的学習」を実現するための要素の一つに「修養」を位置づけ、「学習の根帯としての姿勢」を重視しました。蘆田と異なって姿勢を前面に出していますが、この姿勢は丹田呼吸法によってつくられるとします。呼吸法によって身心の状態を調えるという意味で、蘆田と木下は同じ方法で同じことを目指したと言えるでしょう。しかし、蘆田は「修養」によって主に教師の成長を目指したことに対し、木下は「修養」によって子どもの「自律的学習」を目指したことが、両者の大きな違いです。呼吸を意識しながら姿勢を調えれば集中することができる。そうすれば、学びの機会を逃すことなく自律的に学べるだけでなく、他者と協同して学ぶこともできると言うのです。これを木下は、「自律的学習」の方法として提起したのです。

 そもそも丹田呼吸法は武道や芸道では当たり前のことで、この時代に突如として開発された呼吸法ではありません。しかし、明治・大正期に「修養」がクローズアップされたことで、呼吸法によって身体と心を調えることが一般的にもよく知られるようになりました。蘆田にしても木下にしても、身体と心を別々のものとしてとらえる心身二元論ではなく、身体と心をまるごとひとつのものとしてとらえる身心(心身)一元論の立場なんですね。呼吸によって身体の在り方を調整することで、心の安定も取り戻そうという発想です。

 たとえば、わたしがこの場で椅子の背もたれにぐったりと身体を預けてそっくり返ったような格好では、インタビュアーの方の質問をしっかり聞くことはなかなか難しいですよね。同様に子どもたちも、自律的に学ぶための身体の構えが必要なわけです。と言っても、背筋をピンとのばした気を付けの姿勢というわけでなく、上半身の余分な力が抜けて下半身がどっしりとした「自然体」の状態に身体の在り方を戻そうというわけです。

 しかし、現在の教育現場に蘆田や木下の教えをそのまま活かすことは、むしろ身体的な矯正や学習規律の必要以上の強化として誤解される可能性もあって、なかなか難しいことだと思います。ただし、子どもたちの身体の状態に着目することは、どの時代でもどんな状況でも必要でしょう。子どもたちが教室でどのような姿勢になっているのか。もしくは、どのような表情を浮かべているのかなど。言葉以外の表現、すなわち身体による表現は、子どもたち各々がそのとき感じていることの、何よりもの発露でしょう。「主体的・対話的で深い学び」によって子どもたちの自律性や主体性がより重視され、さらに生成AIが目まぐるしく進歩している今こそ、教育における「身体」という観点は再評価されてよいのではないでしょうか。

 ただし、身体に着目にした教育が、1930年代以降にたとえ間接的であったとしても全体主義の浸透を後押ししてしまったことを見逃してはなりません。たとえば1930年代の木下は、「修養」という言葉を使わなくなり、その代わりに「修練」を使い始め、最終的に「皇国民の錬成のため肚腰錬成(はらこしれんせい)」を主張します。呼吸で肚を練って自然体の状態にし、いかなる状況にも動じず、しかし居着くのではなく、いつでも即座に対応できる身体の在り方を目指したにもかかわらず、「いかなる状況にも動じない」といった面だけがことさら強調されてしまったのですね。それでは、自らの頭で判断することなく、そのまま国に奉仕していく従順な身体をつくることになってしまう。子どもたちの自律的な学習をうながすはずの身体性に着目した教育の方法が、子どもの身体を錬成すればするほど空虚なものになっていくロジックは、多くの研究者が研究の対象にしてきたのですが、まだすべては詳らかになってはいません。

 私自身、近代日本の教育における「修養」研究で明らかにしたいことのひとつは、ここにあります。同時に、子どもたちの身体の空虚化をとめることができなかった、教師側の身体にも強い関心を抱いています。今回のインタビューで紹介した木下と蘆田の実践や教育思想を研究することで、この問題の突破口が見つかるのでは……と考えています。もちろんこの二人だけが研究対象ではありませんし、さらには近代日本の「修養」を理解するには仏教やキリスト教の理解が不可欠なので、追究すればするほど沼にはまっていきます(笑)

 最後になりますが、私は教育方法学者として、歴史研究だけでなく、全国の学校現場にも赴いて教師たちと授業改革や学校改革に取り組む実践研究もしています。実際に授業を参観していると子どもたちの身体性はもちろん、教師の身体も気になるんです。いまの教育現場の先生方の身体は、それこそ激務で疲れきっているはずなのに、ギリギリの所で踏ん張って日々の実践を積み重ねているように見えます。このような状況下で、どうすれば子どもたちが学び合い、教師も学び合い成長する学校を創造していけるのか……。日々、子どもと教師に学びながら実践研究も進めているところです。

 近代日本の教育における「修養」を中心に、身体に着目して研究を進めながら、最終的には現代の教育実践や教師の成長にも寄与していきたい──そう考えながら、亀のような歩みで研究を進めています。インタビュー前編で触れたことですが、指導教官が「時間がかかるテーマだよ」とおっしゃったとおり、やはりまだまだ道半ばですね(笑)。

 

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齋藤 智哉

研究分野

教育方法学

論文

戦後の芦田恵之助の教育思想に関する覚書-「修養の道連」「師弟共流」から「共に育ちましょう」へ―(2023/02/20)

明治時代における芦田恵之助の「修養」(2022/02/20)

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