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教科書編修問題と國學院の面目―学問ノ神聖ヲ保ツベキ國學院―

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研究開発推進機構 助教(特別専任) 比企貴之

2024年4月22日更新

 創設からほどなく財政の困窮へと陥った皇典講究所は、その後、約10年におよび経営の危機的状況下にあった。このかん山田顯義、松野勇雄、國重正文ら歴代は、それぞれ事業綱領を掲げて頽勢(たいせい)の挽回を企図したが、そこには、いずれも書籍などの編修・刊行が盛り込まれるという共通点が存在した。とりわけ「国体および固有倫理にかんする教科書編纂」(明治23〈1890〉年)や、「教科書編纂を継続拡張」(明治26年)と示されたごとく、学校教育で用いる教科書(教科用図書)を皇典講究所ないし國學院として編むことは念願であった。

 そうしたなか明治29年に佐佐木髙行を所長・院長に迎えて経営の刷新が図られると、同36年には事業拡大にも目処がついたものか、それまで國學院の所轄であった編輯部が経営分離されている。かくして、教科書の編修はふたたび計画の俎上に上ることとなった。

 ところで、明治二十・三十年代当時、教育産業とりわけても教科書の刊行は、巨大なマーケットと化していた事実を見過ごしにはできない。明治37年の参考値ながら、修身・日本歴史・地理・国語などの国定教科書の発行許可部数は約2218万部ともいわれている。背景には、明治19年より教科書検定制度が開始されたが、同制度下では教科書の採択そのものは府県ごとの統一採択の方式(文部省検定済み教科書中から府県単位の教科書図書審査委員会が審査のうえ採択決定)を採用しており、いったん採択されれば向こう4年間の販売部数が保証される、教科書会社にとってうま味の多い仕組みとなっていたことがある。そのため教科書会社と審査委員とのあいだに贈収賄の腐敗が蔓延することも必然(?)というべきで、実際、検定制度開始の2年後には早くも東京府で小学読本教科書の採択をめぐる疑惑が生じている。

 とくに一大疑獄となったのは、明治35年12月、司法の手により贈収賄容疑で金港堂、普及舎、集英堂といった教科書会社その他20箇所余りに家宅捜索が入り、地方の府県知事、衆議院議員らを含む210余名が検挙されたことであった。連日新聞紙面においてセンセーショナルに報じられたという。

 さて、経営再建を目指す國學院で教科書編修が本格始動しようとしたのは、あたかもこうした社会状況下でのことだった。教育産業の急拡大を目の当たりにした軽挙の謗りはまぬかれえないところである。ところが、そのとき在京の卒業生(井野辺茂雄・山本信哉・堀江秀雄・早川純三郎ほか総勢13名)および院友会の人びとらが、明治36年9月8日、教科書編修・刊行計画への反対と中止の建白書を佐佐木所長・院長へと提出した。「國學院ノ名ニテ一切教科書ヲ編纂セザルコトハ、御院ノ主義ニテ候ヒシ事ハ、嘗テ二三ノ教科書肆ヨリ院名ニテ教科書ヲ編成セムト願ヒ出デタル際、御院当局者ノ明言セラレタル次第ニ候」と始まり、途中「学問ノ神聖ヲ保ツベキ國學院ニシテ教科書ヲ編成セラレ候テハ、内情ハトモアレ、ソノ結果ハコノ賎劣ナル教科書肆ノ群ニ入リ」や「國學院ニトリテ非常ナル収入トナルニモセヨ、教科書ヲ学院ノ名ニテ編成スルコトハ、今日ノ実況上甚ダ賤劣ニ見受ラレ候」と歯に衣着せぬ内容である。結局、こののち國學院としての教科書編修・刊行の形跡はみられないので、この建白の存在も手伝ってか、計画は沙汰止みとなったらしい。

 こうして教科書編修の計画は見直され、「学問ノ神聖ヲ保ツベキ國學院」の体面は保たれた。その際、心ある國學院関係者たちが立場の垣根を越えて危機感を共有し、提言をおこなったことは特筆大書に値する。この春、國學院大學は2400名余の卒業生・修了生を送り出し、教職員中にも退職を迎える方々がおられるが、引き続き國學院大學の行く末を見守り続けていただくことを切に望んでやまない。

『國學院編教科書問題ニ就キテノ建白書』(部分) 奥側(左端)行に「学問ノ神聖ヲ保ツベキ國學院」の字句がみえる。

学報連載コラム「学問の道」(第58回)

比企 貴之

研究分野

日本中世史、神社史、神祇信仰、神社史料、伊勢神宮、石清水八幡宮

論文

明治三十年 八代国治日記(2023/03/06)

石清水八幡宮の史料と修史(2022/12/14)

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