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詩の内側外側。詩作の中にある“時代の精神”

社会学者/詩人としての姿勢と歩み ―後編―

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経済学部 教授 水無田 気流

2024年4月1日更新

 社会学者である一方で、「新鮮な感覚を備えた優れた現代詩の詩集」を顕彰する中原中也賞を受賞して以降、現代詩シーンの重要人物であり続けてきた、水無田気流・経済学部教授。その詩作には、いったいどのような“時代の精神”が宿っているのだろう。

 自身のいくつもの顔について訊ねたインタビュー前編から、詩人としてのありように迫る後編へ。どこまでも拡散しゆく現代社会の、その一端をつかまえようとする営みもまた拡散的になっていくのは、道理かもしれない。だからこそ水無田教授の姿勢にはきっと、いまの時代を生きることの、ひとつの切実さが宿っているはずだ。

 

 いくつかの「筆格」を使い分けているというお話をインタビュー前編でお伝えしましたが、そもそも水無田気流という名前も本名ではなく、本来は詩人活動の筆名として使いはじめたものです。

 中原中也と松尾芭蕉に由来するものなのですが、我ながらなかなか変な名前です。ネット社会の中で他の人と差異化し、私の作品に興味を持った人にたどり着いてもらいやすいものとして自らつけた筆名でした。もちろん周囲の知人や友人に素性を隠すという意味合いもあったのですが、ありがたいことに中原中也賞を受賞したことで、見事にバレてしまいましたね……(笑)。

 日常のなかで当然だと思われている社会構造に光を当てていく、そんな社会学を学ぶ大学院生として研究を続けながら、そこで言語化しきれないものを詩で表現していく。若い頃の詩作は、そうしたものでした。当時書いた詩のなかには、たとえば以下のようなものがあります。

太陽の下で

交換可能な私の日常は

イラナイモノからできている

(中略)

私たちは

タタカイながら移動する

タタカイながら世界を歌い

タタカイナガラネムル

(しかないのだしかないのだしかし)

 これは私の第一詩集『音速平和』(2005年)の表題作、その冒頭の一節です。

 戦後の知識人として大きな足跡を残し、詩人としても活躍された故・吉本隆明さんが『音速平和』をご覧になって、「この人はなぜ、詩の外部で考えているんでしょうね」といった旨のことをおっしゃったそうです。

 「詩の外部」とは、あるいは、その対となる「詩の内部」とは何なのか。これは近現代詩の流れが前提となっている議論でして、ここではごく大まかな見取り図を描いてみたいと思います。

 実は私の『音速平和』は、フランス近代詩の巨人であるポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」という詩篇のモチーフを、かなり自由に、いや、端的にいえばめちゃくちゃに分解して再構成を試みている、実験的なところもある作品でした。ヴァレリーをモチーフとしながら、しかしそれを混沌とした現代的なフィールドへもちこんでいるところがあります。

 「詩の内部」で思考するということは、いわば近代的な、理性的な作品の内部で思考する、ということです。ヴァレリー以外にも、ヘルダーリンやシラーといった近代詩の巨人たちの作品というものは、申し上げるべきことは多々あれどあえてひとことでいえば非常に理性的なんですね。

 『音速平和』は、本来は理性的な詩の世界を参照しながら、攪乱(かくらん)させているところがあります。描かれているのはいわゆるゼロ年代、インターネット普及以降の拡散的・複製的な感覚でもある。近代詩のヴァレリーに則りながら「詩の内部」で考えないのはなぜなのか、なぜわざわざ「詩の外部」で物事を考えているのか、という吉本さんの問いは、改めて考えてみてももっともなものだと思います。

 そのうえで、ひとつの問いも浮かびます。

 近代日本ではそうした西欧文学を受容しながら、萩原朔太郎によって口語自由詩が完成していったわけですが、モダニズムの影響が大きかったということはご理解いただけると思います。一方で中也や宮沢賢治といった人たちは自然を詩に詠みこんでいき、人口に膾炙(かいしゃ)していくわけですが、それもまた人為的なモダニズム詩のシステムのなかに取り込まれていった、という評価ができます。

 そこで興味深いのは、吉本さんは戦後詩を大きく動かしていく『荒地』という同人のメンバーだった、ということです。『荒地』は反戦思想を土台とし、定型詩に象徴される近代詩の性質というものも徹底的に相対化いったところがある。自然を詩に書くということにかんしても同様です。吉本さんはその『荒地』の晩期の同人で最年少の世代だった人です。ご存じの方も多いように、詩人としても批評家としても同時代的な人気を誇り、自然に関しても非常にポップなセンスで詩にされる方でした。

 そうした、近代詩を相対化する『荒地』の流れを汲み、かつそのなかでも異分子であった吉本さんが、ゼロ年代の詩を目の当たりにしたとき、「詩の内部」でヴァレリー的・理性的に構築していくスタンスをなぜ取らないのか、と不思議に思いつつ面白いと感じていただいた、ということなんです。このこと自体にもまた、とても興味深い問いが含まれている気がします。

 前後編にわたって、社会学者として、そして詩人としての姿勢や歩みを振り返るインタビューにお答えしてきました。しかし、やはり自分のなかには、首尾一貫した人生の物語はないな、と感じます。

 たしかに、社会学や詩において私が手がけるものは、いまこの世界において名づけられていないものを名づけようとする意思、というような信条には貫かれているかもしれません。ただ、だからといって、そのふたつの活動がスムーズにつながるかというと、つながらないのです(笑)。

 70もの人格を使い分けていったポルトガルの国民的詩人、フェルナンド・ペソアに憧れるところもありますね。そうやってひたすら筆格をチェンジしながら書かないと至ることのできない境地があるのではないか、と感じながら、研究や活動を続けています。

 

水無田 気流

研究分野

文化社会学、家族社会学、ジェンダー論

論文

「ダイバーシティ(多様性)」概念の歴史的変遷についての一考察(2021/03/25)

日本のジェンダー規範とメディアの役割についての一考察――象徴的排除生成の要因分析を軸に(2019/09/30)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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