近くて遠い? 遠くて近い? そんな親の気持ちや大学生の子どもの気持ちを考えます。
「真理」と「真実」
今年度は、「大学で学ぶとは」、特に「國學院大學で学ぶとは」をテーマに述べて来ました。「学習から学修へ」「修理固成の学び」「『つくる』教育から『(自ら)なる』人育てへ」「神社学校(わが国の「学校」の起源)」などの文言が飛び交いました。
この視点から、「大学の学び」を5点に集約して、入学式で講話したことがあります。ここでは紙幅の都合上、以下の1点に絞って述べたいと思います。
それは、「真理」と「真実」の追究をということ。「真理」とは、科学社会学という専門分野では、客観的な出現の確率の高さを言います。
例えば、1+1=2。これは学校教育における「学校知」です。しかし、社会的実相に基づく「経験知」では、そのようなことはある意味、稀な現象かもしれません。
喧嘩してマイナスになったり、何も生まれず0で終わる。また逆に、1+1が、3にも4にも,5にも発展することがあります。スポーツの世界では通常のことです。
「真実」から「真理」を
嘗てアメリカの市民団体がアフリカに粉ミルクを送った美談が、高校の「公民」の教科書に掲載されました。
確かに、「真理」としては、ボランティア活動例として挙げるにふさわしい活動です。しかし、「真実」はと言えば、たくさんの乳児の死者を出しました。そこには、泥水で粉ミルクを溶かざるを得ない厳しい社会インフラの実相があったからです。
実は、社会科学以上に、自然科学から言えば、自然現象も仮説通り検証されること(真理)は少ないのです。ノーベル賞級の研究というのは、多くが「真理」追究ではなく「真実」追究の結果の新たな「真理」の発見なのです。
それを、科学の「パラダイム転換」(T・S・クーン、中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房、1977年など参照)と呼称します。
総じて言えば、「単眼」ではなく「複眼」で、社会的事象を多元的にとらえるということでしょうか。
「学習」から「学修」への変容
高校教育も現在の学習指導要領では、授業の在り方として、「学習」から「学修」への変容が要請されています。しかし、正否を問う入試がある以上、1つの正解を追究する教育にならざるを得ません。
その延長線上にある大学教育であれば、学生たちは「損在感」に陥るでしょう。
しかし、ああでもない、こうでもないと問う大学の学びであれば、彼らの自己存在感は高まり「尊在」となり、学習意欲は向上する、すなわち「修理固成」のいう「(自ら)なる」のです。
大学教員もまた、高校までの学び(学習)を苦手とした学生が、大学の学び(学修)に「弾け」、潜在的に持っている資質・能力を「開く」姿を目にすることを、喜びとします。
今回も最後に、「明治天皇御製」から、卒業する皆さまに贈る句です。なお、句中で「ゆるしのふみ」とは、卒業証書のことです。
「いまはとて学びの道に怠るな ゆるしのふみを得たるわらべは」
(学びの道に終点はない。卒業後も、ますます道を学べよ)
新富 康央(しんとみ やすひさ) 國學院大學名誉教授/法人参与・法人特別参事 |
学報掲載コラム「おやごころ このおもい」第20回