ケア労働といえば、近年活発に言及されるトピックのひとつだ。ケア労働の担い手が女性に集中してきてしまった歴史や社会のありようについて、さまざまな議論がなされている。その性差別的な構造については、中馬祥子・経済学部教授も論じている。一方で中馬教授は、現在のケア労働論においてひとつの潮流をなす「ケア労働特殊論」──ケアを市場労働と区別する論調については、疑義を呈している。
手がかりを与えてくれるのは、半世紀も前に欧米を中心に展開した「家事労働論争」だ。ケア労働を市場労働と別物とみなすことには、いったいどんな問題があるのだろうか。狭義の経済から広義の経済へ、という議論を展開したインタビュー前編を経て、この後編では、昨今注目を集めるケア労働を再考する。
一般的に「経済」として認識されている、資本主義市場経済のみに基づく狭義の経済ではなく、非市場労働をも含めた広義の経済を考えてみる──私自身の歩みにも触れながらインタビュー前編では、商品生産以外の労働貢献について考えていく、非市場労働論の概要をお伝えしてきました。
非市場労働のひとつが、近年改めて議論の焦点となっているケア労働です。家庭の中に目を向けていえば、家事労働のなかでも特に育児や介護など、直接的に家族成員の世話をする活動がケア労働であり、女性がその多くを負担してきた歴史や社会構造などについていま議論を呼んでいるということについては、ご存じの方も多いことでしょう。
実は1960年代末から70年代にかけて、いまから半世紀も前に、主に欧米において「家事労働論争」というものが展開されました。経緯については後ほどすこしお話しするとして、まず注目したいのが論争の争点です。非常に多面的な特徴をもっていた論争の中でも中心的な争点のひとつが「家事労働は市場労働と同等性をもつのか、それとも異なる特殊性をもつのか」というものでした。つまり、家事労働と市場労働を、共に経済を構成する要素として架橋して考えようとする「生産労働・再生産労働一元論」と、家事労働の中でも特に人間の再生産に直接携わるケアは商品生産労働と質的に異なるとする「生産労働・再生産労働二元論」(以下、それぞれ「一元論」「二元論」)との対立です。「ケア労働特殊論」は、二元論にあたります。
現在のケア労働をめぐる議論においてもよく見受けられる論調ですが、ケアのひとつの考え方として、経済的価値を生産する労働ではない、というものがあります。育児や介護といったケアは、相手の顔が見えるような本質的な人間関係のなかでなされる相互的な営みであり、いわば生きた人間自体を再生産する行為である。根本的なレベルにおいて、金銭に還元できるような労働ではないのだ、という主張です。
実際に子育てをしている・いた人であれば、そうした意見をもっている方、あるいは意見に理解を示される方も多いのではないでしょうか。自分が子どもを育てているという営みを、お金を稼ぐ労働と同じようにいわないでほしい、という感覚ですね。
しかし実は私は、こうした二元論に強い違和感を抱いています。それは、人間を再生産するというケアのとらえ方自体への違和感です。以下の議論は、労働の同質性/特殊性という話からすこしズレていくように感じられるかもしれませんが、実はこのテーマに密接に関連しています。
育児のことを考えてみましょう。子どもは誰かの働きかけによって育つのだという見解が、人間を再生産するという二元論を支えています。しかし子どもが育つということは、誰かの働きかけ以前に、生命体そのものがもつ自主的な力に基づくものであるはずです。
もちろん、ケアにおける働きかけによって育ち方は大きく影響されるでしょう。しかし二元論は、ケアは普通の生産労働とは異なるピュアな行為なのだといいながら、むしろ子どもを、自分が再生産する対象物と位置づけてしまっているのではないか。私はそうしたニュアンスを感じるのです。
むしろケア労働を、ケアを受ける人々の主体的生き方をサポートするものととらえなおせば、高齢者の介護は言うまでもなく、より広く教育業などの営みへも議論を敷衍(ふえん)させていくことができます。さらにその範囲は、対人的なサービス商品の生産労働に限らず、モノの生産を含む市場労働全体にわたって広く展開していくこともまた可能です。
たとえば、対人サービスではなく、モノをつくっている人のことを考えてみましょう。ユニバーサルデザインなどは典型的な例ですが、ある商品の技術開発者は、つくろうとしているモノの背後に、それを使う人の生活を思い描き、さまざまな配慮をしています。たとえ、目の前にいる人に直接的な働きかけをしていなくても、いやむしろニーズをもった人が直接目の前にいないからこそ、さまざまな調査や研究を通して、人々の生活に何が求められているのか、どんなことやモノが人の役に立つのかを考え、形にしていく難しさがあるといえるかも知れません。このように考える限りでは、ケア労働と商品を生産する市場労働との線引き=二元論はあまり意味をなさないということが、ご理解いただけると思います。
そもそも、モノ・サービスを商品としてつくって売っているとしても、その生産に直接携わる労働者は、金銭的利益を得ることだけを目的としているとは限りません。人の役に立つ商品をつくろうと考えながらも、企業が利益を得るという成果を一定期間内に出さなければ開発プロジェクトや商品販売が中止されてしまうといった経営的判断との板挟みのなかで、人は苦しんだり折り合いをつけたりしながら働くわけです。働く人々の多くが内面に持っている他者への配慮、すなわちケアの発想と経営効率のはざまの板挟みの感覚は、市場労働に従事している多くの人々が体感しているはず。しかし二元論では、こうした労働者たちのこともうまくとらえることができず、排他的にさえなりえてしまう。
さらに、二元論にこだわることによって、ケアをおこなっている当事者たちの立場が苦しくなってしまうという事態も考えられます。ケアは利益追求を目的とする商品生産労働とは本質的に異なるという主張の一方で、市場経済のなかでケアをサービス商品として提供している人たちがいることもまた事実です。そしてその労働者たちの多くが、低賃金で働いています。原因は、生産効率の追求が困難であることや、家庭内で担われるタダのケア労働の存在を前提に需給関係が形成されること、ケアの多くを担っている女性に対する差別意識など、さまざまです。市場経済においてケア労働がなぜ低評価となるのか、その経済・社会的な構造こそが問い直されるべきなのですが、ケアと商品生産労働との異質性を強調する二元論では、そうした構造をわかりにくくしてしまうわけです。
実はこうした議論のもとになるアイデアは、半世紀も前、一元論を最初に提唱していったマルクス主義フェミニズムの論者たちによって語られていました。しかし、当時の論争においては二元論者たちの考え方が優勢になったために、一元論の可能性というものはあまり顧みられずに現在に至ってしまっています。
今日、資本主義市場経済の下で働く生産労働者の多くは、職種や業種を問わず、自分が担っているしごとや、自分たちがつくり上げた財・サービスが人々の役に立っているか、社会に貢献をしているかといったことを、個人差はあれ意識しています。この意識は、家庭内でケアを担う主婦(いわゆる再生産労働者)が、子どもや夫、義理の/実の父母などに配慮し、彼らのためになっているか否かを考えながら動いていることと、大きくは変わらないと思います。
そして、生産労働者の典型的な悩みのひとつである「自分の労働貢献とその評価との間のずれ」もまた、再生産労働者と共有していると言えるでしょう。ずれをもたらす要因はさまざまでありえますが、労働貢献の基礎をなすケアの発想と、経済的利益という判断基準の間に横たわるずれが大きく関わっている場合が少なくありません。
例えば、前編で述べた「3食昼寝付き」という専業主婦を揶揄する表現の背後には、お金を稼いでいる夫の仕事こそが重要なもので、ケアを含む家事は家にいる主婦なら当たり前でやることといった序列的・差別的価値観が前提されている。家事負担に悩む主婦は、その負担の重さそのものに加え、自分の負担が十分に家族から評価されていないという二重苦に悩むこともしばしばなのです。
資本主義市場経済の下では、ことはさらに複雑です。なぜなら、社会的に必要とされ、役立つ財・サービスをつくりさえすれば、その商品を市場で売買することを通して、必然的に供給者である企業に利益をもたらし、そこに貢献した労働者は高い賃金・報酬を得る、と考えられているからです。この考え方は、いわば「神話」のように、多くの人々に信じられています。しかし現実がそうでないことは、商品開発に従事する労働者や、ケア・サービスを提供する賃労働者などの事例を通して述べて来た通りです。
また、全く逆の現象として、企業の利益獲得に貢献することで多額の賃金や報酬を得ながらも、自分が担う仕事の社会的意義を見出せずに悩む労働者も少なからず存在します。近年、経済人類学者デヴィッド・グレーバーが論じた「ブルシット・ジョブ」という概念が、研究者たちのみならず多くの働き手から注目されたことによりその存在がクローズアップされました。この概念は経済的な利益獲得と、人々の生活を支え、社会的必要を満たすこととが、資本主義市場経済の下で必ずしもイコールとなる訳ではない現実を示していると言えるでしょう。
家庭内でケアを含む家事労働に従事する専業主婦、家事労働と賃金労働との二重負担を抱える兼業主婦、多様な業種、職種で商品生産労働を担う労働者たち、こうした人々が働く現場で抱える悩みは、一見すると全く性質の異なるものに感じられるでしょう。しかし、一歩踏み込んで考えてみると、どのようなしごとであれ、人が働くという行為の根本には、他者との社会的な関係の中で生きる人間が他者のために役立ちたい、何らかの貢献をしたいと思う、ケアの発想が横たわっていることが見えてきます。そうした思いは、今日の資本主義市場経済を成り立たせる利益獲得という価値尺度との間で、往々にして齟齬をきたすという共通の問題も見えてくるはずです。一見すると全く異なるしごとに従事している人々が抱える悩みに通底する問題点を意識し、それぞれの悩みに共感しあえるようになった時、今日の資本主義市場経済が働く人々にもたらす問題の解決につながる第一歩が踏み出されたといえるようになるのではないでしょうか。
中馬 祥子
研究分野
女性労働論、非市場経済論、社会的連帯経済、国際経済
論文
「日本における”女性職”の現状:図書館司書を含めた『専門的・技能的職業』に着目して」(2021/11/25)
「市場経済と性差別の奇妙な関係」(2021/06/01)