商品であるモノを売買する、サービスを利用・提供する……。「経済」というとき、私たちが主にイメージするのは、そうした資本主義市場経済のありようだ。しかし、それだけが経済ではないのだと、中馬祥子・経済学部教授は優しく語る。
たとえば同居人や家族に、朝食をつくる。そのあいだにもうひとりが洗濯を終え、掃除をする。そんな日常的な家事労働も含めて、今日も社会の隅々でおこなわれている「非市場労働」が、狭義の経済の枠組みでは見落とされているようだ。広義の「経済」について、インタビューの前後編で訊ねた。
私の関心の核にあるもののひとつが、「非市場経済論」というものです。一見すると小難しく感じられるかもしれませんが、しかしその内容は、私たちの日々の生活に密接にむすびついています。
経済というと一般的には、経済イコール資本主義市場経済だと認識されていて、商品を生産する労働が生産的活動だとされています。実際に初歩的な経済学を教える際も、家計(経済単位としての家庭)は消費主体であり、企業は生産主体であり……といったところからはじめていくのが常なのですが、しかしすこし踏み込んで考えてみると、たとえば家計は本当に消費活動をおこなっているだけなのか、という疑問が浮かんできます。
たしかに商品は購入しますし、企業が提供するサービスも利用します。しかし家計において行われるのは、そうした消費活動に留まりません。たとえば、食事をつくるということひとつとっても、確固たる生産活動です。一昔前には専業主婦を「3食昼寝付き」だなどと呼ぶこともありましたが、実際には生活のさまざまな面を妻に整えてもらっているからこそ夫の日々はまわり、サラリーマンとして外に働きに出ることができていたわけです。主婦の就業率が高まった今日でもその基本構造は変わっていませんし、特に地方では人々が、一緒に住んでいる家族のみならず、何らかの形で隣人の世話をするといったケースも少なからずあるでしょう。
近年では、育児や介護といった人の世話をする労働、すなわちケア労働の担い手が女性に集中してきた問題が広く議論されています。こうしたケア労働自体をどうとらえるかという点については、インタビュー後編で改めて考えていきますが、いずれにせよこうした「非市場労働」は、市場労働に従事する人々の労働力再生産を支える機能を担っているんですね。単なる商品消費の主体ではないわけです。
にもかかわらず「非市場労働」は通常、経済を構成している要素として考慮されておらず、経済的な価値を生み出すものとして認識されずにむしろ除外されてしまっているのです。しかもこうした非市場労働でおこなわれていることが、たとえば飲食業や介護産業などといったかたちで市場経済のなかに組み込まれたとき、その評価や賃金が非常に低いという問題もあります。
こうした点を踏まえながら、私が取り組んでいるのが、「非市場経済論」です。私たちが普段考えている経済は狭義の経済であり、市場経済を支えている非市場経済をきちんとカウントした広義の経済というものを考えよう、ということなのです。
現在のような研究にたどりついた経緯を振り返ってみると、そのきっかけは10代の頃にさかのぼります。私は中学から高校までカトリックの学校に通っていて、カトリック倫理という道徳の授業のなかで、開発途上国の貧困問題といったことをしょっちゅう議論していたんです。現在でもアフリカでの飢餓は問題となっていますが、私が中学・高校に通っていた1980年代は、たとえばエチオピア大飢饉などの大きな飢饉が発生した時代でした。
そうした時代において、経済学も含めた社会科学で脚光を浴びていた議論は、イマニュエル・ウォーラーステインが提示した「世界システム論」でした。時代がめぐって2022年、『史的システムとしての資本主義』が岩波文庫に入りましたので多くの方がウォーラーステインの議論を読むことができるようになっています。
ウォーラーステインが強調していることのひとつは、マルクス経済学が論ずるところのプロレタリア化(自分の労働力を売って賃金を得ること以外に生活を支えるすべがない労働者が増える過程)がむしろ如何に進行しなかったのか、別の言い方をすれば半プロレタリア化が如何に進行したのかが問題だ、という点です。ウォーラーステインの文章を見てみましょう。
「半プロレタリア世帯では、次のようなことが起こったはずである。すなわち、基本的には自家消費のための家内生産、ないしせいぜい局地的市場での販売──むろん、その両方ということもありうる──によって、受容可能な賃金の最低基準を引き下げうるような余剰を生みだしていた、ということがそれである。その際、そうした〔非賃金労働的〕活動は、世帯内の他のメンバー──性別、年齢を問わず──によってなされることもあれば、賃金稼得者自身が人生の別の時期におこなうこともあった。こうして、非賃金労働の存在によって、一部の生産者はその労働力をより安価に調達できたし、そのことによってまた、生産コストを引き下げ、利潤マージンを拡大することもできたのである」(『史的システムとしての資本主義』川北稔訳、岩波文庫、pp.42-43。)
これは開発途上国のことを考えるうえで有効な視点です。途上国の都市で市場労働に従事している人は低賃金で働いているケースが多いわけですが、そうした人々の多くは完全にプロレタリア化することなく、むしろ農村からの仕送りがあったり、仮にクビにされてその日の食べ物に困る状態になってしまったとしても何とか自給自足して暮らせる故郷があったり、といった環境があるからこそ生きていくことができる。市場経済の外に生きるすべがある、そんな半プロレタリア労働者たちの存在によって、生産者たちも支えられている。しかも、こうした構造は途上国内部の関係だけで終わる話ではありません。グローバルな経済分業のありようもまた、途上国の非市場経済に依存して初めて成り立つわけです。
こうした見えない経済、広義の経済の視点による理論的な研究へと、私自身の関心はやがてシフトしていきました。インタビューの後編ではここまでの議論を踏まえつつ、「労働の同等性」という問題について考えてみたいと思います。鍵になるのは、半世紀も前に起こった「家事労働論争」です。
中馬 祥子
研究分野
女性労働論、非市場経済論、社会的連帯経済、国際経済
論文
「日本における”女性職”の現状:図書館司書を含めた『専門的・技能的職業』に着目して」(2021/11/25)
「市場経済と性差別の奇妙な関係」(2021/06/01)