言葉と向き合い続け、その仕事が多様な媒体の編集者はもちろん、第一線で活躍する作家たちからも信頼を集める校正者・大西寿男さん。前編では校正という仕事についてお話をうかがった。後編では「言葉」について、また、大西さんがいま私たちみんなに必要なものと語る「校正のこころ」についてうかがった。誰もが情報発信でき、あらゆる言葉があふれている現代。中には暴力的、差別的なむき出しの言葉もある。人を傷つけず、自分も傷つかない言葉を発するにはどうすればよいのだろうか。
自分を絶対と思わず、相対化して言葉と向き合う
ネットが日常に入り込み、誰もが情報発信のツールを持つようになった。それ自体は素晴らしいことだが、一方であまりに攻撃的、差別的な言葉をポンッと投げ出す人や、アクセス数を伸ばすために「炎上」を狙って強い言葉を投げる人も増え、読む人を傷つけることもよくある光景となってしまった。なぜ、こんなことが起きるのだろう。
その問いに、大西さんは意外な発言をした。
「言葉って、思った通りに届いたら奇跡で、最初から届かないと思うぐらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。
言葉はとてもあまのじゃくで裏腹なものですよね。たとえば、誰かが文句のつけようがない正論を理路整然と述べたとして、じつはその人が本当にぶつけたいのは正しさではなく〝蔑み〟や〝嫉妬〟だったということもあります。また、本当は好きで好きでたまらないのに、言葉として出てくると『大嫌い』になってしまうこともある。『お腹空いた』というつぶやきには、じつは『なにか食べさせてほしい』とか『だから何か食べに行こうよ』という意味が隠されていたりすることは、誰しも経験がありますよね」
確かに、言葉の後ろには、語られていないたくさんの言葉がある。ストレートに受け取ったら隠れた意味は分からないし、勘ぐりすぎてもまた、意味を曲解してしまうかもしれない。でも「伝わらないのが言葉なんだ」という考えがあれば、失望することもないかもしれない。
「相手の激しい言葉を受け取るときも、それを無防備に受け止めると打撃を受けてしまいます。だから『この人は差別的だったり、暴力的だったりする言葉を発信しているけれど、本当は何を言いたいのだろう』というフラットな視点を持つことが、とても大事だと思います。文を書いて発信する訓練も必要だけれど、まず第一に言葉というものを自分ひとりの視点で見ないで、いろいろな角度から見てみる訓練をする。激しい言葉でも、相手が何を言いたかったのかと文脈やバックボーンまで想像してみると、直撃から少しは身をかわすこともできます。場合によっては『ああ、まあ、そうか、お互い様だね』と、思えたりするかもしれません」
逆に、自分が無意識のうちに誰かを傷つける言葉を発しないか気をつけるには、どうすればよいだろう。そのときは「自分はいまどの地点に、どんなふうに立っているか」を確認することが助けになると、大西さんは言う。
「まず、自分の気持ちは、いま、喜びに満ちているのか、腹を立てているのか、危機感を感じているのか。誰に対して、何を言いたいのかを素直に正直に考えてみる。同時に、数が多く、力が強く、声が大きいマジョリティの視点と、声が小さくて数も少ない、マイノリティの視点があったとして、さて、自分はいまどちらの視点で見たがっているのだろうかと考えてみる。世の中にはいろいろな世界があり、強い世界もあれば弱い世界もある。恵まれた美しい世界もあれば、みすぼらしくて貧しい世界もあります。真実はどこにあるかわからない。その中で、自分はどこの地点に拠って立って言葉を放とうとしているのか? つまり、いまの自分自身を正直に素直に認めることから、自分以外のさまざまな他者の視点にも気づくことができる。みな、知らず知らずのうちに、「自分が絶対、正しい」とどこかで思いたがっています。そういう自分に気づいて、この広い世界の中のどの地点にいるのか、そこから本当は誰に向かって何を言いたがっているのかを理解した上で、言葉を発することが大事ではないかと思います」
自分を絶対と思わず、相対化して、その上で言葉と向き合っていく作業は、校正の姿勢そのものではないだろうか。
大西さんの著書の一節「『校正のこころ』(創元社、2021年)はだれもが持つことができる、言葉のコミュニケーションを大切にしたい、私たちみんなのものです」という一文は、校正的視点が社会生活に欠かせないものだということを教えてくれる。
前編で大西さんが語っていたように「誰かの言葉を味わうことは、言葉を大切にすること」だとしたら、他者の言葉を味わう訓練をすることで自分が発する言葉も変わってくるかもしれない。
言葉はどこから生まれるのか
言葉は人を感動させることも、傷つけることもできる。私たちは会話であれば聞いてくれている相手に、文であれば読んでくれる人に分かってもらいたいと思い言葉を放つはずだ。しかしときには思ってもいなかった言葉がスルッと出てしまい慌てることもある。その言葉は一体、どこから生まれたのだろうか。そして、言葉とは誰のものなのだろう。
「そのことはよく考えるのですが、本当に難しい。文章であれば、まず第一に、言葉を紡いだ書き手のものであると感じます。しかし、書き手自身も思いも寄らないような言葉が、どこからか紡ぎ出されてくることもある。その言葉は、かつてその書き手がどこかで見たり、もう出会ったことすら忘れてしまった人が言った言葉の記憶、影かもしれない。あるいは、目に見えない世界とつながっている言葉かもしれない。とすると、その言葉は書き手の背後にある世界から生まれたもののようにも思うのです。
自分で文章を書いているときも、無意識の中から思いもかけない言葉が生まれでて、まるで誰かが書かせてくれたような、天から言葉が降りてきたような経験をすることがありますが、その言葉は自分から生まれたのか? 自分の背後にあるものから生まれたのか? では自分とはどこまでが自分なのだろうか……? などと考えが広がっていきます」
そして大西さんは、均質で平和なニルヴァーナ(涅槃)のような世界には、言葉は必要ないだろうと言う。
「そうだったら言葉で何かを伝える必要ないですからね。やっぱり、言葉というのはカオス(混沌)の中から生まれてくるのではないかと思いますね」
自分が放った言葉は自分とその背後にあるものが言わせているのだと思うと、うかつに言葉を放ってはいけないと感じてしまう。でも恐れることはない。
「言葉は伝わらなくて当たり前、伝わったら奇跡」
伝わるように思いを込めて一言一言を発し、また受け取るときはその背後にあるものにまで思いを広げて受け止めればよいのだ。
プロフィール
大西寿男(おおにし・としお)
1962年神戸市生まれ。校正者、一人出版社「ぼっと舎」代表。1988年より文芸書、一般書を中心に校正の仕事を始める。岩波書店、集英社、河出書房新書などの外部校正者として数多くの作品の校正に携わり、その仕事は芥川賞作家をはじめ多くの作家、編集者から信頼を寄せられている。現在は出版業界以外の人も対象にした校正のワークショップや講座も数多く開催しており、言葉の寺子屋「かえるの学校」をライターで編集者の渡邉裕之さんとともに主宰。著書に「校正のこころ 積極的受け身のすすめ」(創元社)、「校正のレッスン 活字との対話のために」(出版メディアパル)などがある。2023年1月NHK総合テレビジョン「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演。
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取材・文:有川美紀子 撮影:庄司直人 編集:篠宮奈々子(DECO) 企画制作:國學院大學