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國學院大學の「はじまり」をたどる。國學院は、“時代のムーブメント”によって創設された学校だった②

戦後、廃校の危機に面した國學院大學。時代とともに変わる大学の役割があった。

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研究開発推進機構 准教授 渡邉 卓

2023年9月14日更新

     國學院大學が渋谷に移転して、今年で「100年」になるという。

  では、その前はどこにあったのか? 麹町区飯田町5丁目8番地(現在の千代田区飯田橋3-8)である。この地で國學院大學の母体、「皇典講究所」が開設された。

  なぜ、國學院大學は飯田橋から渋谷に移転したのか――。「澁谷の岡」のはじまりをたどる。

◆ ◆ ◆

 明治36(1903)年、高等専門教育を実施する教育機関を対象に専門学校令が発令され、認可されると「私立國學院」とした。そして、明治39(1906)年より「私立國學院大學」と名乗るようになる。国学を勉強する学校という個性を持つ國學院だが、「実はもう一つ大きな魅力があった」と、渡邉卓准教授(國學院大學・研究開発推進機構)は教える。

 「國學院は、師範学校の教員免許を取ることができる学校でした。それまでは、専門学校へ行かなければ、教員免許を取得することはかなわなかった。しかし、専門学校令を機に、大学として教員免許の資格を与えることができるようになったんですね。実際、國學院が開校するときに新聞各紙は、そのことを中心に伝えているほどです」(渡邉先生、以下同)

 師範学校とは、今でいう国が認可している学校に相当する。私塾ではなく、国が認めた学校の教員になることができるため、言わば“ランクの高い教員免許”を取得することができた。当時の時代背景を鑑みると、大きな魅力だったに違いない。

 現在も、國學院大學の教員輩出率は、教育大学を除く他大学に比べると高い傾向にある。

 「私は地方出身者ですが、私の高校時代の恩師が國學院大學出身の方でした。その先生から、「君は國學院大學に向いている。行った方がいい」と言われ、進学したという経緯があります(笑)」

 “教員の伝承”もまた、連綿と続く國學院大學の個性というわけだ。

「厳密に言うと、皇典講究所は神職の免許を発行する機関。國學院は勉強する施設という関係性です。わかりやすくたとえるなら、皇典講究所は運転免許試験場、國學院は教習所といったところでしょうか」

 

「騒音問題」 渋谷へ移転した理由

飯田橋のこの場所に、國學院大學はあった

 大正 9(1920) 年、國學院大學は大学令による認可を得て、名実ともに「大学」に昇格する。認可の際、「大学ニ必要ナル設備又ハ之ニ要スル資金」「少クトモ大学ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基本財産」を有することなど、各学校は厳しい条件が課せられた。だが、幸いにも皇室下賜金や文部省の補助金、また多くの寄付によって難を乗り越えてゆく。

 「明治期にあっては、渋沢栄一を含め、当時の財界政界の方々が協力してくれたという記録が残っています。専門学校令が発令されて以降、雨後のたけのこのように学校が設立されていくわけですが、そうした中でも多くの寄付が集まったというのは、皇典講究所と國學院の重要性を、理解してくださった方が多かったからだと思われます」

かつて皇典講究所と國學院があった場所には、現在、東京区政会館がある

 先述したように皇典講究所は、國學院大學と同じ校地にあり続けた。これは、渋谷に移転してからも変わらなかったそうだ。

 では、なぜ國學院大学は、飯田橋から渋谷へと移転したのか? 移転した大正 12(1923)年5月当時の状況を、渡邉先生が解説する。

 「一つは、大学として認可されたことで、学生数が増えていくというキャパシティの問題。もう一つが、飯田橋周辺の開発が目覚ましかったこと。当時、飯田橋は東京市電(のちの都電)が走るだけではなく、甲武鉄道(のちの総武線、中央本線)の駅もありました。電車の騒音などによって、授業が聞き取れない状況が続いていたそうです。そのため、広く、それでいて学業に専念できる静かな場所を探すことになったのです」

飯田町の校舎から見た風景。校舎の目の前を東京市電が走っていた。

 候補地として挙がった場所は、目白の学習院の脇、新宿御苑、そして渋谷の3か所だったという。「最終的に、氷川神社の隣にあった「氷川裏御料地」に新校舎を構えます」と渡邉先生が話すように、この地は、常磐松御料地にほど近い閑静な場所だった。今現在も、國學院大學の目と鼻の先には、常陸宮家が邸宅として利用する常盤松御用邸があることからも、勉学に励む環境としてうってつけだったことが窺える。

 「当時の渋谷は、今のような大都会ではありません。郊外の新興地というような場所でしたから、土地も余裕があった。國學院大學のキャンパスは、段階的に広くなり今の大きさになるのですが、移転当初は今では考えられないくらいこじんまりとしたものでした」

 

移転当時の國學院大學の渋谷校舎。

 郊外の新興地である渋谷は、同じような問題を抱えていた大学にとって、理想的な場所だったのかもしれない。事実、國學院大學が移転した当時、渋谷周辺には青山学院(のちの青山学院大学)、実践女学校(のちの実践女子大学)、東京農業大学があった。

 常磐松周辺は、こうした文教エリアとしての素地があったこともあり、大正14(1925)年に常磐松小学校が、昭和22(1947)年に広尾中学校、昭和25(1950)年には広尾高校が開校する。さらに、昭和23(1948)年になると久邇宮邸の跡に、聖心女子大学が誕生するなど、渋谷の中にあって旧常磐松町(現在の東1丁目、東4丁目、渋谷4丁目、広尾3丁目)は、文教地区として形作られていく。

 「東京農業大学さんは、戦争の影響で校舎が焼失してしまい、現在の世田谷通り沿いに移転します。しかし、運よく國學院大學はあまり被害がなかった。もし、國學院大學も戦災に遭っていたら、再び移転していた可能性もあるでしょう」

 だが――。

 空襲や火災といった直接的な被害こそなかったが、國學院大學は戦争の被害を間接的に受けた大学だった。

 

神道を宗教とみなす GHQとの折衝

 前編から説明してきたように、國學院大學は神職養成と古典研究を主たる目的とする学校として出発した。

 「GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は、神道を宗教と見なし、神社を国家から分離するために「神道指令」を発令しました。実際、伊勢にある神宮皇學館大學は、官立大学だったため、神道指令によって廃学を余儀なくされています(その後、私立大学として再興される)」

 であれば、國學院大學も……? その答えを聞く前に、戦時中、國學院大學がどのようなスタンスだったのかを確認しておきたい。

 「当時の皇典講究所長・國學院大學学長は、佐佐木高行の孫である行忠が担っていました。彼は、授業をおろそかにしないという方針を立て、戦時中でも実直に講義を行い続けていました。プロパガンダのような授業は行っていないんですね。ただし、戦局の悪化にともない、昭和18(1943)年10月に「学徒出陣」が決定されたことで、本学の学生たちも戦地に赴くことになりました。出陣学生に向けての軍神祭と壮行会を行っている記録があります」

 このとき、旅立つ学生たちの中には、日の丸に書かれた講師陣の寄せ書きをもらった者もいたそうだ。

 「唯一、折口信夫先生だけには断られたそうです。「国旗はそういう使い方をするものではない」と」

 なんとも折口らしいエピソードだろう。

 戦争によって、國學院大學の学生・教職員439人が犠牲になったという。どういった理由であれ、戦争に関わったという事実がある。だが、「國學院大學は廃学にならなかった」。なぜか?

 「前述の通り、神職の免許は皇典講究所が出しています。一方で、國學院大學は、あくまで学校であると説明しました。先ほど、教習所を例にしましたが、学習する場であって、ライセンスを交付する場ではないと理解を求めた。そのため、皇典講究所は発展的に解消とし、神社本庁として生まれ変わります。そして、國學院大學は学校として独立する。それまでは、財団法人皇典講究所の中にある大学だったのですが、正式に学校法人として独立するわけです」

 旧来の学部学科を廃止し、文学部などを新設するなど、 GHQに斟酌する形で、國學院大學は戦後に適応していくことになる。「それしか生き残る道がなかった」、そう渡邉先生は語る。

 「独立するわけですから、再び甚大な資金が必要になります。本学のキャンパス内に、石川岩吉という人物の銅像があります。もともと、明治 28 (1895)年卒の國學院第 3 期生なのですが、やはり山田顕義、佐佐木高行同様に外部から招聘する形で着任した。終戦直後の最も混迷した時代の國學院大學理事長・学長です。この方は、今の上皇陛下の教育係を務めていた方でした。神社界にも、皇室にもパイプがある石川岩吉が理事長・学長を務めたことで、再度、國學院大學は窮地から救われます。石川岩吉が直々に全国を行脚し、寄付を募ったからこそ、國學院大學は独立できるまで立ち直ることができたのです」

 日本古来から慈しまれる“縁”のたまものだろう。皇典講究所がなければ、石川岩吉は輩出されていなかったのだから。

 「國學院大學は、たしかに地味かもしれません。目立った政治家や財界人は、他大学に比べると少ないかもしれません。ですが、適材適所ではないですが、日本の文化や伝統を担う職種に関しては、優れた人物を輩出し続けているんですね。校の先生や神社の神主さんもそうです」

 私たちにとって身近な存在を輩出してきた國學院大學。飯田橋に40年、そして渋谷に移転したから100年。140年という歴史の中で、國學院大學は國學院大學にしか歩めない、二つとないわだちを残し続けている。

 

※写真等の無断転載をお断りいたします。

 

取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(原生林) 企画制作:國學院大學

渡邉 卓

研究分野

日本上代文学・国学

論文

「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)

「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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