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國學院大學の「はじまり」をたどる。國學院は、“時代のムーブメント”によって創設された学校だった①

実は、飯田橋にあった國學院大學。“幕末の大物”が支えた國學院黎明期の秘話。

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研究開発推進機構 准教授 渡邉 卓

2023年9月14日更新

    國學院大學が渋谷に移転して、今年で「100年」になるという。

 では、その前はどこにあったのか? 麹町区飯田町5丁目8番地(現在の千代田区飯田橋3-8)である。この地で國學院大學の母体、「皇典講究所」が開設された。

 なぜ、國學院大學は飯田橋から渋谷に移転したのか――。「澁谷の岡」のはじまりをたどる。

◆ ◆ ◆

 國學院大學の歴史は、長く、深い。

 その名の通り、國學院に冠されている國學は「国学」であり、その起源は江戸時代までさかのぼる。国学とは、江戸時代中期に起こった、日本の伝統文化に基づく心を究明する学問のこと。学校の授業で、荷田春満(※1)、賀茂真淵(※2)、本居宣長(※3)、平田篤胤(※4)といった国学者の名を、誰もが一度は聞いたことがあるはずだ。

「江戸期における主流の学問は朱子学、つまり儒教です。当時は、日本に関することが中国由来の学問で説明されていました。しかし、日本のことは日本の学問で説明するのが筋ではないのか? と、考える国学者があらわれるようになり、国学は隆盛していきます」

 そう説明するのは、國學院大學研究開発推進機構・渡邉卓准教授。江戸時代から明治時代にかけて、国学を学ぶための学校が設立されていくと続ける。

 「明治維新により、西洋諸国の文化が日本にもたらされるようになります。その際、日本独自の文化や伝統も大切にするべきだという意識が高まりました」(渡邉先生、以下同)

 こうした大きな流れの中で、やがて國學院大學は誕生することになるわけだが、出生にいたるまでの経緯は、他大学と比べると特異なケースといえるかもしれない。順を追って、説明していこう。

 「西洋諸国の思想や文化が流入する中で、日本の憲法を作るという大きな取り組みが始まります。憲法は国の根幹を定める最高法規ですから、“日本独自の文化や伝統とは何か”という国学的な視点も必要となります。また、合わせて神道という存在も重要です。大政奉還の際には、明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、神道の存在が大きくなります。だからこそ、神職養成と古典研究に重きを置く機関が必要となる。それが國學院大學の原点となるわけです。しかし、その道のりは紆余曲折でした(苦笑)」

 

 もともと、神仏合同で国民布教を行う教導職の道場として、「大教院」という機関が、現在の増上寺にあった。しかし、次第に仏教勢力が反発。「大教院」はわずか3年で解散し、明治8(1875)年に神道教導職の拠点として、新たに「神道事務局」が設置される。

 「「神道事務局」は、神職を含めた神道教導職の活動拠点でした。後進を育てるため、神道・国学を学ぶ機関として生徒寮もあり、学生もいました。この生徒寮を独立させ、国学を中心とした学務的な役割を兼ね備えた学び舎にできないか――。明治15(1882)年、神職養成と古典研究を主たる目的とする皇典講究所は、こうして創設されました」

 この皇典講究所こそ、國學院大學の母体である。

 「慶応義塾大学であれば福沢諭吉、早稲田大学であれば大隈重信というように、学祖がいます。しかし、國學院大學にはそうした明確な人物がいません。後述する山田顕義や松野勇雄といった人物は、國學院の大学史を語る上では欠かすことのできないキーパーソンですが、福沢諭吉や大隈重信のような存在ではない。言わば、國學院大學というのは、明治維新がもたらした“日本古来の伝統や文化を再考する”というムーブメントによって誕生した学校なのです。特定の人物の名前こそ浮かびづらいですが、新しい時代の機運によって生まれた大学という意味では、唯一無二の大学だと思います」

 

二大支柱・山田顕義と松野勇雄が目指したもの

 皇典講究所は、旧旗本・秋元隼人邸跡地(東京市麹町区飯田町5丁目 8 番地)に建設される。現在、東京区政会館がある場所である。当時の写真を見ると、旗本邸をそのまま利用した校舎に、数十名の生徒たちが映っていることが確認できる。

 皇典講究所の歴代総裁は、すべて宮家から選ばれていた。初代総裁は、有栖川宮家第8代当主の有栖川宮幟仁親王。そして総裁の下に、実質的に学長のポジションを担う「所長」がいた。その初代所長が、吉田松陰に師事し、尊皇倒幕運動にも参加した政治家・山田顕義だった。驚くことに、初代司法大臣(現在の法務大臣)を務めながら、初代所長に就任したそうだ。宮家と司法大臣。国学に対する、国の姿勢が見て取れるだろう。

 「山田顕義は、大日本帝国憲法の発布や議会の開設にともなう立憲政治の運用には、日本の古典や歴史に基づいて国の土台を固めることが必要であると主張します。そして、「国史・国文・国法」を中心に、「海外百科の学も網羅兼修」することを掲げ、皇典講究所を拡充発展させた「國學院」の創設に向けて動き出します。この理念に共鳴し、募金活動を含め東奔西走したのが、国学者・松野勇雄でした。この二人がいなければ、今日の國學院大學はありません」

 松野勇雄は、皇典講究所で教鞭を執っていた教員の一人でもあった。皇典講究所の教員は、すべて国学者の学統の中にいる学者たちだったという。

 「松野勇雄は、 平田篤胤に師事し、その養子となった平田銕胤(かねたね)の学僕です。余談ですが、今現在も本学の教員の中には、国学者の学統にあたる先生がいらっしゃって、その流れをたどっていくと、江戸期までさかのぼります。実は私もその一人です(笑)。連綿と続く学問の継承も、國學院大學ならではの魅力と言えると思います」

 明治23(1890)年、皇典講究所の中に國學院が開校する。その一年前には、国法を専修する学校が、同所の中に開校する。海外百科の学も網羅するけれど、日本の古典を重んじる皇典講究所が、日本の法律も考えていく――と考えるのは、必然的な流れかもしれない。その名を「日本法律学校」という。のちの日本大学である。國學院大學と日本大学は、もともと同じ秋元隼人邸跡地に存在した、ともに轡を並べる仲だった。日本大学のホームページを見ると、山田顕義は「学祖」として紹介されている。飯田橋に建てられた発祥記念碑を見ると、二校が同じ時間を過ごしていたことが分かる。

 では、なぜ二校は袂を分かつのか?

 「明治25(1892)年に山田顕義が、翌26年に松野勇雄が立て続けに急逝してしまう。二大支柱を失ったことで、皇典講究所は財政面を含め危機に陥ります。その中で、「日本法律学校」(日本大学)は、法律の学校として独自の道を歩みます」

 

二代目所長は、“土佐三伯”の一人だった

 偉大な舵取り役を失った皇典講究所と國學院は、山田顕義に匹敵する人物を指導者として迎え入れるため、ある大物のもとに何度も通い、直願したという。人物の名は、佐佐木高行。明治天皇の側近であり、あの坂本龍馬と親交を重ねた“土佐三伯”の一人である。

 「國學院大學のルーツを歴史好きの学生に教えると、「えぇッ! あの佐佐木高行ですか!?」と声を上げて驚きます」

 そう渡邉先生はいたずらっぽく笑うが、歴史に名を残す勤皇の志士が、自分の大学の母体、その二代目所長を務めていたのだから、ひっくり返りそうになるのも分からなくない。

 「実質的に実務を執り行っていたのは、息子である高美(たかよし)でした。皇典講究所・國學院は、高い理念がありましたが、財力が伴わないという課題を抱え続けていました。そうした経営難を打開するために、政界に太いパイプを持つ佐佐木高行を招聘したという側面もあるわけです。佐佐木高行が所長の任を受けてくれたことで資金面も回復し、明治41(1908)年には飯田橋に新校舎を竣工するまでになります」

 その少し前、明治36(1903)年には、高等専門教育を実施する教育機関を対象に専門学校令が発令される。それまで東京と京都、両帝国大学のみ「大学」という呼称が認められていたが、この専門学校令によって認可された学校では、「大学」と呼称する学校が増えていったのだ。

 「本学も専門学校令に認可されたため、「私立國學院大學」と名乗るようになりました。ただし、この段階ではあくまで大学と名乗っただけに過ぎません(笑)。しかしながら、神職養成と古典研究を主たる目的に出発した学校が、専門学校令に認可されるというのは大きな進歩だったのです」

 その後、大正8(1919)年4月1日に大学令が施行されると、私立大学が誕生することとなり、國學院大學は名実ともに「大学」へと昇格する。このとき認可された私立大学は、9年2月に慶應義塾大学、早稲田大学、同年4月に明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、同志社大学、國學院大學。わずか8校の中に、國學院大學は名を連ねることになる。その歴史は、オンリーワンといっていい。

 では、どうして國學院大學は、いまは飯田橋ではなく渋谷にあるのか? 今につながる國學院ヒストリーを、後編でつまびらかにする。

 

後編へ続く)

 

※1 荷田春満 寛文9(1669)年~元文元(1736)年。江戸中期の国学者。国学の鼻祖。京都の伏見稲荷神社の神官の家に生まれる。賀茂真淵は晩年の弟子。

※2 賀茂真淵  元禄10(1697)年~明和6(1769)年。江戸中期の国学者。遠江国敷智浜松庄出身。

※3 本居宣長 享保15(1730)年~享和元(1801)年。伊勢国松坂出身。江戸中期の国学者。『古事記伝』44巻のほか、国文、国語、神話、神道の著作を多く残す。歌文学は養子大平 、神道論は没後の門人平田篤胤に受け継がれた。

※4 平田篤胤 安永5(1776)年~天保14(1843)年。江戸後期の国学者。本居宣長の没後門人。学問は養嗣子の銕胤 (かねたね)らに受け継がれ、明治以降の国学や神道学に影響を与えた。

 

取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(原生林) 企画制作:國學院大學

渡邉 卓

研究分野

日本上代文学・国学

論文

「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)

「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)

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