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歴史研究の暗がりに光を当てる意義

社寺への募金活動「勧進聖」の世界 ー後編ー

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人間開発学部 教授 太田 直之

2023年8月21日更新

 歴史研究の歴史自体が積み重ねられていっても、謎は多く残る。その謎こそが、次なる歴史研究を生みだしていく。太田直之・人間開発学部教授が光を当てるのはまさに、従来の歴史研究において暗がりのなかに埋もれていた人物たちだ。その代表が、中世後期の社会をあちこちへ動き回り、各地で社寺への募金活動を行っていた「勧進聖(かんじんひじり)」である。

 研究内容の一端を訊ねたインタビュー前編は、その個人的な動機や社会的な背景を語る、このインタビュー後編へと連なっていく。1980年代に始まる「社会史ブーム」から、神仏習合の再検討、そして史料のデジタルなデータベース化まで。歴史の細部を詳らかにすることの、来し方行く末が見えてくる。

 

 社寺の周縁や外部、あるいは内部に食い込みながら、その修繕などを目的とした募金活動(=勧進)を広く行う宗教者──特に中世後期の「勧進聖」について、インタビューの前編でお話ししてきました。私の関心としては、勧進聖のみならず、たとえばその活動において使われたと思われるお札のことも気になっています。

 金銭を託してくれた人に対し、功徳の証として、そして護符やお守りのような機能をもったものとしてこうしたお札が配られたはずですが、実際どのように使われてきたのかということにかんしては、さらなる史料の開拓が求められる状況です。もちろん、家のなかにはることで厄除けや魔除けとするような使い方はかねてより行われてきたと考えられますが、詳細の解明はこれからという段階なんです。

 そもそも中世後期の勧進聖にかんする研究は従来、さほど注目されてきませんでした。研究にも流行というものがありまして、たとえば鎌倉時代は盛んに研究の対象とされてきましたから、その中で鎌倉期の勧進についての研究は進んできました。一方で、中世後期における勧進の詳細が明らかになっていくのはこれから、というところがあります。

 振り返ってみれば、私が大学に入学し、まだ歴史研究者になろうなどという目標もないままに大学生になった1990年代は、網野善彦さんといった中世史家の方々の著作群が、歴史研究界のみならず、一般社会においても「社会史ブーム」と呼ばれる大きな流行を生みだしていました。民衆の歴史、人々の心といったものを対象にする研究が多くなされるようになったんですね。歴史好きに留まっていた私もそうした研究を見て、すごく面白そうだ、自分でも実際にやってみたいなと思ったことをきっかけに、大学院に進んでいきました。

 やがて出会った対象が、勧進聖です。そのよくわからなさ、端的に言ってしまえば、とても怪しげな存在であることに魅かれていったのは事実です(笑)。と同時に、史料を丹念に見ていくと、同じような人物がいろんな社寺の勧進を請け負って、広範囲に動き回っている様子が浮かび上がってくるんですね。もともとは何も資金を持っていないような人間が、社寺や民衆からの信頼を得て、各地で実績を上げていく。その動きが、だんだんと見えてくるわけです。

 先ほども申し上げたように、中世後期の勧進聖に興味を抱いている人は、あまりいない状況が続いていました。戦国武将といった著名な人物たちでもないわけです。しかし、史料の間からその存在を浮かび上がらせてあげないと、勧進聖という人々のありようは歴史のなかで埋もれたままになってしまう。だからこそ、自分が見つけ出すこと、掘り起こすことの面白さがあるんです。

 できるだけ細やかに史料にあたり、そして各地の勧進聖の異同点といったものも見ていくわけですが、ここには神仏関係をめぐる、歴史研究におけるまたひとつの大きなテーマも関係していきます。それは神仏習合をめぐる議論です。明治の近代化のなかで神仏分離が進み、逆にそれ以前の中世や近世といった時代では神仏が一体だったという言説は、たしかに歴史の実際に当てはまる部分もあります。神社を運営するのが仏僧であったり、神を表現するにあたって仏像の意匠が含まれていたり、といった例は枚挙に暇がありません。

 ただ他方で、中世や近世の神仏関係がすべて等質に、神仏習合という言説ひとつで説明できるかというとそうではないだろうと、研究者での間でも批判的な検証が進んでいるのも事実です。私自身としても、仮に神仏が完全に一体化してしまっていたならば、明治においてその分離は不可能だったのではないかと考えています。場合によっては習合し、別のところでは独立を保ってきたからこそ、近代における神仏分離が可能だったのではないだろうか、と。

 そこで私は、各社寺における神仏関係の実態的な差異、というものに注目したいと考えています。中世における上賀茂神社(賀茂別雷神社)の神仏関係を探った論文は、そのひとつです。たとえば、当時の上賀茂神社には御読経所(みどきょうしょ)、そして供僧(ぐそう)と呼ばれる人々が置かれましたが、同時に神主の力は非常に強かった。古文書や記録を繙くと、供僧の連署だけではなく神主が書判を加えていることがわかり、神主の影響力が大きかったこと、上賀茂神社において神仏習合は部分的なものにとどまったということがわかってきます。

 勧進聖にしても神仏関係にしても、やはりこうして淡々と事例を掘り起こし、蓄積していくことしかないだろう、と感じています。これは私に限らず多くの歴史研究者の方が考えていることだと思いますが、具体的な事情を掘り起こし、明らかにして積み重ねていくことこそが、“歴史の王道”なのではないでしょうか。

 中世後期にかんしては、徐々に史料は集積されつつあるものの、まだまだ各地に分散して埋もれている状況です。しかも現在は、そうした史料をめぐる研究的な価値というものが変わりつつあります。かつては散らばっていた史料を集めるだけでも研究的な価値が認められていましたし、読み解くにしても、それらをひたすら1ページずつめくりながら丹念に検証するしかありませんでした。山のような史料、しかも従来ほとんど興味をもたれてこなかった史料から、光の当たってこなかった人物の具体的な足跡を浮かび上がらせる。そんな喜びを私は味わってきました。

 一方でいまは、史料が次々とデジタル・データベース化され、検索も簡単にできるようになってきています。すると今度は、どのように分析していくのかという手腕が問われるようになる。歴史研究は現在、ひとつの過渡期にあるようにも感じますね。

 

社寺への募金活動「勧進聖」の世界ー前編「勧進聖が生まれた経緯と興味の源流」はこちらをタップして進んで下さい。

 

太田 直之

研究分野

日本中世史

論文

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