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勧進聖が生まれた経緯と興味の源流

社寺への募金活動「勧進聖」の世界 ー前編ー

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人間開発学部 教授 太田 直之

2023年8月21日更新

 目の前に初めて会う人間が現れ、あなたにとって大事な社寺の修理や修造のために募金活動をしているといわれたら、どうするだろうか。喫茶店で見聞きする怪しい勧誘活動に似ている……と言えば語弊があるが、相手が信頼に足る人物かどうか判断しようとすることは間違いない。しかもその人物は、必ずしも社寺内部の人物とは限らないのだ。

 中世後期、「勧進聖(かんじんひじり)」と呼ばれる人々が行っていたこうした募金活動に魅せられているのが、太田直之・人間開発学部教授だ。既得権益をめぐる社寺との関係性、苦しい穀断ち行を経ることで民衆から得ていた信頼。とても人間臭い世界が、そこには広がっている。

 

 私が興味を持って追いかけているのは、中世後期において「勧進」という、社寺の造営や造像などのための募金活動を行っていた人々──「勧進聖」の営みと、社寺との関係性です。面白いのは、「勧進聖」が必ずしも社寺の内部の人間ではない、という点です。言ってしまえば、信心をもち、しかし、一方で怪しげでもあるような人たちが、民衆からの募金を集めていたということなんです。そのうち社寺の中に勧進事業を専門に扱う部署ができあがっていくという流れも含めて、非常に興味深いんですね。

 「勧進」はもともと、仏教的な教えを人々に広めていくことを指していた言葉で、この表現が使われる前、奈良時代から似たような行為は行われていました。それが後に、寺院や神社の修理、修造のために行う募金活動のことを指すようになります。11世紀になると史料に「勧進聖」と呼ばれる人々が登場し、鎌倉時代に入ると、幕府や朝廷という公権力が任命する、いわば全面的な請負事業としての「大勧進職」という役職も生まれていきます。

 このように、公権力からの援助を受けられる寺院や神社でしたら、修理をするにしても問題がない状況が整っていました。あるいは、社寺領=土地をもっているならば、自前で修理費用を賄うことも可能だったわけです。しかし、15世紀中頃以降になると、従来社寺を庇護していた公権力が衰退したり、戦乱が相次いだりといった不安定な政情などのなかで、既存のシステムがうまくまわらなくなってしまった。

 これが、中世後期に勧進活動が爆発的に増加していく背景です。社寺がやむを得ず、外部の力を頼っていくという流れがあった。内部で権益をもっていた人々が徐々に外部の勧進聖を受け入れたり、あるいはそうした外部の力を借りることは前例がないのではないかと検討を加えたり、ということが起こっていきました。社寺と勧進聖が折り合いをつけながら関係を紡いでいく様子が、史料から見て取れるのです。

 逆に、勢力を伸ばしていく勧進聖の側から見ても、いろいろと工夫をしながら活動しています。もともと民衆的な基盤をもっているような社寺であれば、勧進聖のような人間も最初から内側に入り込んでいるようなケースもあるのですが、より大きな社寺、それこそ公権力ともつながりがあるようなところですと、外部である勧進聖が募金活動を行うこと自体に交渉が必要になる。おそらくは、いろんな伝手(つて)をたどる、ある種のプレゼンテーションを経るなどしながら、社寺と関係性を築き、募金活動を認めてもらってからスタートする、ということだったのではないかと思われます。

 中世というと、そこまで社会制度が厳格ではなかったイメージがあるかもしれませんが、しかし既得権益については厳しいところがある。たとえばある史料を読んでいると、社寺に勧進聖がやってきて、これから勧進を行いたいのだが……と相談を持ちかけてくるも、「伝統的にそんなことはやっていないからダメだ」とはねのけられたというケースもままあるんです。

 それでも、もはや自分たちの力で再建が無理そうだという社寺が、仕方なく勧進聖を受け入れるということがあった、ということなんですね。ごく一部分の修理にのみ勧進聖を受け入れる、というお試し期間のような段階を経て、実績を積んだらやっと社寺の中心部分の修繕に関係できる、というようなイメージで捉えていただければと思います。

 そもそも勧進聖と呼ばれた人々がなぜ勧進を行っていたかといえば、もちろん功徳を積むという目的が大きいわけですが、しかしその営みは確実に、彼ら自身が日々の糧を得るということともつながっていたわけです。勧進聖を研究するということの楽しさのひとつは、こうした“人間臭さ”にあるかもしれません。

 人間臭さと言えば、勧進活動が爆発的に増加していく際に出現するのが、「十穀聖(じっこくひじり)」「木食聖(もくじきひじり)」と呼ばれる宗教者たちです。あらゆる穀物を食べない苦行である穀断ちは、中国仏教において古くから行われてきたもので、その古代中国においても、奈良時代以降に受容してきた日本においても、賛否両論入り乱れるものでした。そうした断穀がなぜ室町時代において十穀聖、木食聖という勧進を行う人々の営みとして拡大するのかは今後の検討課題ではあるのですが、その全国的な活躍ぶりを、民衆の視点から考えてみることはできます。

 さまざまな食物からエネルギーや栄養の摂取が可能な現代とは異なり、当時穀物というものは、生命維持に必須の食べものでした。だからこそ穀断ち行は、常人には達成するのが難しかったわけです。そうした苦行をやり遂げた人々相手であれば、募金をすることで功徳につながると民衆が期待したのではないか。あるいは、穀断ち行の清廉や無欲といったイメージのもと、この人間に金銭を託したとしても悪用されず、正しく運用してもらえると考えたのではないか。想像して見てください、たらふく食べて肥えている、しかもただでさえどこの者か判然としない聖に、なけなしの金銭を預けることはできないでしょう(笑)。

 このように、勧進聖について調べ、考えるということには、さまざまな面白さがあります。その学問的な背景について、インタビュー後編ではもう少し突っ込んだお話ができればと思います。

 

社寺への募金活動「勧進聖」の世界ー後編「歴史研究の暗がりに光を当てる意義」はこちらをタップして進んで下さい。

 

 

太田 直之

研究分野

日本中世史

論文

日本古代における穀断ち行の受容と変容(2021/11/01)

祓の季節ー夏の年中行事の起源と歴史ー(2018/03/20)

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