学芸員として美術館に勤務していた時に、障がい者アートの素晴らしさを知った鈴木真知子さん(平4卒・100期哲)。創る人も、その作品を観る人も、みんなを元気にすることができる“アートの力”に可能性を感じ、現在は長野県茅野市にある障がい者生活介護施設「この街学園」で表現活動のサポートを行っている。そのかたわらで、芸術療法士の西川直子さんとともに、誰もが自由に創作活動を楽しめる「アトリエももも」を設立。表現活動を通じた、地域の居場所づくりにも奔走している。
「美とは何か」、「愛とは何か」を考え続けた大学時代
鈴木真知子さんは、ユングやフロイトといった心理学に興味があったことから、國學院大學文学部哲学科に進学。当時、哲学科には数十人の学生が在籍していたが、それはそれは個性豊かな面々だったそうだ。
「三島由紀夫に傾倒している人や、大学に通いながらメイクや人形の学校に通っている人など、とにかく個性豊かで文化的な人が多かったですね。美とは何か、愛とは何か――。答えのない問いを日頃から考えている人たちの集まりだったので、自分なりの世界観や思想を、文章や映像、作品や服装などに投影していたのだと思います。美術の道に進もうと思ったのも、哲学科の仲間の影響が大きいですね」
同期には、芥川賞作家や映画監督、俳人など、さまざまな表現者がいる。
鈴木さんが、美術の道を志すきっかけとなったのが、20歳の時に友人たちと参加したのヨーロッパツアー。23日間の日程で、西ヨーロッパ圏7か国を旅して回った。
「その時に訪ねた美術館や博物館で、子どももシニアの方も、みんなが気軽に芸術に触れている様子を見て、日本との文化の違いを痛感したんです。子どもたちが模写をしていたり、高齢のご夫婦が散歩のように美術館に立ち寄ったり。生活の身近なところに美術が存在していて、『日本にも、子どもの頃から美術に親しめる文化があればいいのに』と思いました」
帰国後は、美術史を専攻し、在学中に学芸員の資格も取得した。
障がい者アートの素晴らしさと可能性に触れた学芸員時代
卒業後は出身地である長野県に戻り、「おぶせミュージアム・中島千波館」の学芸員として小布施町に就職。
障がい者アートと出会ったのは、平成10(1998)年に行われた「長野パラリンピック」の時だった。
「冬季オリンピックに続いて行われたパラリンピックの開催に合わせて、『アートパラリンピック』という芸術祭が行われたんです。それに伴い、私が勤めていた美術館でも何度か障がい者アートの企画展を行いました」
その後は、結婚を機に10年ほど勤めた美術館を退職し、諏訪に移り住んだ。転機が訪れたのは平成16(2004)年。
「次男が障がいを持って生まれてきたんです。『この子は、生きていけるのだろうか』と思うぐらい重い障がいでしたが、いろいろな方々の助けを借りて療育施設に通えるようになりました」
落ち着いてきた頃に、縁あって「諏訪市原田泰治美術館」に学芸員として再就職することに。
「原田泰治先生はプロのデザイナーとして活躍された方ですが、足に不自由があり、車いすで生活をされていたことから、障がい者や高齢者といった方への理解や思いを強くお持ちでした」
作家の意向もあり、介護施設や特別支援学校といった福祉施設との関わりが強い美術館だったそう。鈴木さんもワークショップで特別支援学校に行ったり、高齢者の方が来館された時は案内や解説をしていたという。
「障がい者アートの企画展を連続して担当させてもらえる機会にも恵まれたのですが、あちこちの福祉施設を回るたびに感じたのは、『こんなにもすごい作品が埋もれているんだ!』ということ。デッサン力、表現力、発想力、色使い……誰が見てもすごいと感じてもらえるような作品ばかりで、『このまま埋もれさせてしまうのは、もったいない』と思いましたね」
その一方で、イベントの終わりになると、別の感情もこみ上げてきたという。
「企画展の最中は脚光を浴びるのに、終わった途端にスポットライトが消されてしまうような感覚に陥って、寂しさも感じていました。『皆さんの暮らしや人生にまで、私は光を届けられているのだろうか』と。『もっと皆さんの暮らしや人生に近いところで、表現活動のお手伝いができたらいいのに』という気持ちが、自分の中でどんどん強くなっていきました」
福祉とアートをつなぐアートサポーターの道へ
そんなことを思っていた時に、障がいのある人の表現活動をサポートする団体「NPO法人 ながのアートミーティング」の活動と出会う。感銘を受けた鈴木さんは、すぐさま代表に弟子入りを志願。
「『もう、これしかない!』と、ビビビッときちゃいまして(笑)。プライベートでアートサポーターの養成講座を受けに行ったり、ワークショップにアシスタントとして付いて回って勉強させてもらううちに、『もっと福祉の現場に近いところで表現活動のお手伝いがしたい』、『将来、自分の息子が暮らすであろうこの土地で、こんな活動が定着したらうれしいな』と思うようになっていったんです」
そして7年勤めた美術館を退職し、障がい者生活介護施設「この街学園」に転職。現在も、平日はここで表現活動のサポートを行っている。
「福祉の現場に身を置いて感じたことは、外との交流がほとんどないということ。福祉施設って登録された決まった人だけが来る場所なので、人の行き来がないんですよ。施設と自宅の往復だけで終わるのではなく、その中間地点である地域の中に、気軽に立ち寄れて、いろいろな人とつながりを持てる場所があったらいいなと感じていた頃に、共同代表である西川直子さんと意気投合して、『アトリエももも』を立ち上げることになりました」
いよいよ、鈴木さんが理想とする場所が形に。後編では、「アトリエももも」の活動内容について詳しくうかがっていく。
取材・文:松井さおり 撮影:砺波周平 編集:篠宮奈々子(DECO) 企画制作:國學院大學
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誰でも自由に創作活動を楽しめる地域の拠点 私が「アトリエももも」を作った理由(後編)